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古墳時代 朝鮮半島との交流の玄関口「若狭」を再度訪ねる     2011.8.30. 


1.【和鉄の道2008】《再録》卑弥呼の時代からの大陸への玄関口 若狭・北近江 2008.9.1
2. 古墳時代 朝鮮半島との交流の玄関口「若狭」を再度訪ねる 2011.8.30. 
     脇袋古墳群など若狭の王墓からの出土品見学と若狭小浜港・遠敷(おにゅう)の里 Walk 
     2.1.古墳時代 朝鮮半島との交流の玄関口 若狭 小浜の港
     2.2.若狭町歴史文化館で上中地域古墳群の出土遺物展示を見る
     2.3.若狭と大和の深い関係を示す 若狭遠敷(おにゅう)川 鵜の瀬の水送り
3.若狭の国 Walk まとめ 東アジアの文物交流路・和鉄の道 日本海側窓口 若狭の実像が見えてきた


  2. 古墳時代 朝鮮半島との交流の玄関口「若狭」を再度訪ねる 2011.8.30. 
       脇袋古墳群など若狭の王墓からの出土品見学と若狭小浜港・遠敷(おにゅう)の里 Walk 
2.3. 若狭と大和の深い関係を示す
        若狭 遠敷川(おにゅうがわ)鵜の瀬の水送り  2011.8.30. 1110unose03.htm
                  東大寺2月堂「若狭井」の伝承  若狭 遠敷川お水送りの鵜の瀬 


若狭でもう一か所 行きたいところがある。
小浜市遠敷(おにゅう)の里 大陸・朝鮮半島の玄関口若狭で地中に浸み込んだ水が、奈良・東大寺二月堂「奈良のお水取り」の「若狭井」で湧き出すという。毎年 東大寺二月堂の「お水取り」に先立って 若狭 遠敷川(おにゅうがわ) 鵜の瀬では「水送り」の神事が行われるという。大和・奈良と関係深い若狭国をそのままあらわすロマンに満ちた伝承である。
「小浜市遠敷(おにゅう)」は南から遠敷(おにゅう)川が 海岸近くで、北川に注ぎ込む合流点に開けた街。 
若狭の国が栄えた古代 この辺りが北川河口 若狭の湊で、北川と若狭川の河口周辺で 若狭の国 港の中心であったところで、日本海沿岸を東西に走る丹後街道と南へ近江・大和(京)へ抜ける若狭街道の交差点である。
遠敷川を南へ遡ると目的地の遠敷川「鵜の瀬」。この遠敷川を遡る道が古い若狭街道根来道 近江・京を結ぶ古道である。
遠敷川「鵜の瀬」を地図で確かめて、若狭歴史文化館での若狭上中地域の前方後円墳群の展示を見学した後、国道24号線を少し小浜の方へ戻って、小浜市遠敷の里へ向かう。
「遠敷」と書いて「おにゅう」と読む難解な地名で、知らなければちょっと読めないが、若狭の中心として古くから開けた地。
古くは小浜市の大部分上中地域を合わせて「遠敷郡」といい、「若狭国遠敷郡遠敷郷」などの文字が記された木簡が平城京跡などから出土している。和銅5年(712)までは「小丹生」と書かれていたともいい、「遠敷」の言葉自体には朝鮮語の「ウォンフー」に由来するとの説もある。
古代若狭の中心地で南の近江・京の国境の山並みから流れ下ってきた遠敷川に沿って国分寺  若狭一ノ宮 若狭彦・姫神社などがあり、特定はされていないが、この地に国府があったと推定されている。
東大寺2月堂「若狭井」の伝承は知ってはいましたが、遠敷川お水送りの鵜の瀬 については全く予備知識なし。
 解説若狭と大和の深い関係を示す 若狭 遠敷川 鵜の瀬の水送り
       テキスト ボックス: 【 若狭と大和の深い関係を示す 若狭 遠敷川 鵜の瀬の水送り 】      ● 奈良東大寺二月堂で行われる「お水取り」 3月12日に奈良東大寺二月堂で行われる「お水取り」 は1250年の長きに渡って守り続けられている神事で、「若狭遠敷川の鵜の瀬」から繋がっているとされる2月堂「若狭井」より「閼伽水」を汲み上げ本尊にお供えする儀式で、大和路に春を告げるである。また、若狭小浜の神宮寺では、「お水取り」に先立つ3月2日、奈良東大寺二月堂へ水を送る神事「お水送り」が行われる。 ● 史蹟「鵜の瀬」由緒記  鵜の瀬にある案内記板より天平の昔、若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧実忠和尚が大仏開眼供養を指導の后天平勝宝四年(753)に二月堂を創建し修二会を始められ、その二月初日に全国の神々を招待され、すべての神々が参列されたのに、若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず、ようやく二月十二日(旧暦)夜中一時過ぎに参列された。それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒の鵜がとび出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付け、その水を汲む行事が始まり、それが有名な「お水取り」である。その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐっていったと伝える。この伝説信仰から 毎年3月2日夜 この淵へ根来八幡宮の神人と神宮寺僧が神仏混淆の「お水送り」行事を行う習いがある。神宮寺で汲んだ「閼伽水」を鵜の瀬まで夜中に運び、川にこの「香水」を流して 二月堂の「若狭井」に送る。神宮寺境内の大護摩から松明に移した火を貰い受け、鵜の瀬まで約2キロ、三千人を超える松明行列が続くという。奈良と若狭が昔から深い関係にあったことを物語る歴史的な行事である。 若狭の遠敷明神とは同じ遠敷川筋の下流にある若狭一ノ宮 若狭彦神社・若狭姫神社に祭られている若狭の開拓神 若狭姫(豊玉姫)の神(& 若狭彦(山幸彦)という。鵜の瀬には若狭一ノ宮 若狭彦神社・若狭姫神社の境外社 白石神社があり、祭神は若狭彦神、若狭姫神を『白石大神』または『鵜の瀬大神』とたたえて奉祀し、若狭彦神社創祀の社と伝える。また、神宮寺は奈良時代の初め、若狭一ノ宮の遠敷明神(若狭姫)の神願寺として創建されたことに始まるといわれ、さらに、若狭彦姫神を根来白石より迎え神仏両道の寺とした。鎌倉時代に神願寺は遠敷明神上社(若狭彦)と遠敷明神下社(若狭姫)の別当寺となり、神宮寺と改称したとされている。これらを遡るといずれもそのルーツは鵜の瀬「白石神社」で、この「白石」は「新羅」が転化したものとの説があり、この遠敷の里は大和・京との結びつきばかりでなく 朝鮮半島諸国とも強い結びつきがあったことがうかがえる。、テキスト ボックス: 【 若狭と大和の深い関係を示す 若狭 遠敷川 鵜の瀬の水送り 】      ● 奈良東大寺二月堂で行われる「お水取り」 3月12日に奈良東大寺二月堂で行われる「お水取り」 は1250年の長きに渡って守り続けられている神事で、「若狭遠敷川の鵜の瀬」から繋がっているとされる2月堂「若狭井」より「閼伽水」を汲み上げ本尊にお供えする儀式で、大和路に春を告げるである。また、若狭小浜の神宮寺では、「お水取り」に先立つ3月2日、奈良東大寺二月堂へ水を送る神事「お水送り」が行われる。 ● 史蹟「鵜の瀬」由緒記  鵜の瀬にある案内記板より天平の昔、若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧実忠和尚が大仏開眼供養を指導の后天平勝宝四年(753)に二月堂を創建し修二会を始められ、その二月初日に全国の神々を招待され、すべての神々が参列されたのに、若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず、ようやく二月十二日(旧暦)夜中一時過ぎに参列された。それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒の鵜がとび出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付け、その水を汲む行事が始まり、それが有名な「お水取り」である。その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐっていったと伝える。この伝説信仰から 毎年3月2日夜 この淵へ根来八幡宮の神人と神宮寺僧が神仏混淆の「お水送り」行事を行う習いがある。神宮寺で汲んだ「閼伽水」を鵜の瀬まで夜中に運び、川にこの「香水」を流して 二月堂の「若狭井」に送る。神宮寺境内の大護摩から松明に移した火を貰い受け、鵜の瀬まで約2キロ、三千人を超える松明行列が続くという。奈良と若狭が昔から深い関係にあったことを物語る歴史的な行事である。 若狭の遠敷明神とは同じ遠敷川筋の下流にある若狭一ノ宮 若狭彦神社・若狭姫神社に祭られている若狭の開拓神 若狭姫(豊玉姫)の神(& 若狭彦(山幸彦)という。鵜の瀬には若狭一ノ宮 若狭彦神社・若狭姫神社の境外社 白石神社があり、祭神は若狭彦神、若狭姫神を『白石大神』または『鵜の瀬大神』とたたえて奉祀し、若狭彦神社創祀の社と伝える。また、神宮寺は奈良時代の初め、若狭一ノ宮の遠敷明神(若狭姫)の神願寺として創建されたことに始まるといわれ、さらに、若狭彦姫神を根来白石より迎え神仏両道の寺とした。鎌倉時代に神願寺は遠敷明神上社(若狭彦)と遠敷明神下社(若狭姫)の別当寺となり、神宮寺と改称したとされている。これらを遡るといずれもそのルーツは鵜の瀬「白石神社」で、この「白石」は「新羅」が転化したものとの説があり、この遠敷の里は大和・京との結びつきばかりでなく 朝鮮半島諸国とも強い結びつきがあったことがうかがえる。、

東大寺2月堂「若狭井」の伝承  若狭 遠敷川お水送りの鵜の瀬へ
上中の街並を抜け、小浜へ北川沿いの国道27号線を少し戻る。道の右手には中央に北川が流れる田園地 左手は小さな枝尾根が幾つも張り出す山裾で、枝尾根と枝尾根の奥に小さな集落と田園が見える。そんな山裾を10分ほど走り、道の左手に家並みが見えだすと市場の集落。
右手国分寺の標識を過ぎるとすぐに遠敷川の橋で、橋を渡ると遠敷の里である。
土手には「右 県道35号」の道路標識があり、左手から流れ込む遠敷川にそって、街並みとその後に枝尾根の端が見える。
この枝尾根に沿って、遠敷川が流れくだり、この山裾に沿って 鵜の瀬伝承と関連する若狭彦・若狭姫神社  神宮寺 そして奥の山並みの中に鵜の瀬がある。遠敷の里に入り、国道27号から、左手の南に折れる。
この川筋を山裾に沿って遡る県道35号線を遡れば、6km 15分ほどで鵜の瀬である。
遠敷川に架かる橋より南 鵜の瀬方面
鵜の瀬に向かう県道35号の交差点東小浜駅口
Googole Map による 国道27号線 遠敷の里
国道27号線 東小浜口の信号から南へ折れて、正面に見える山裾に沿って
南へ県道35号線 若狭街道根来道に入る
500mほど山裾を走ると傍らの杜 遠敷神(若狭姫)を祭る若狭一ノ宮 若狭姫神社の正面で、道から杜に包まれた社殿が見える。そのまま若狭姫神社の前の街並みを通りぬけて少し行くとぱっと視界がひろがり、尾根筋の間を流れ下って来る遠敷川に沿う田園地帯がひろがり、正面にみえる山並みの入り口へ向かって、街道がまっすぐ伸びている。
もう10分も進めば鵜の瀬である。若狭彦神社・神宮寺の標識が街道筋を左手山裾の森にある若狭彦神社への標識があるが帰りに寄ることにして さらに奥へ
遠敷の里案内板
若狭姫神社 
神宮寺の標識と奥の山並み 遠敷川の流れだし口
                 鵜の瀬への道 県道35号線 若狭街道 根来道 
だんだん 道の両側の尾根筋が狭まり、右へ神宮寺の標識を過ぎると遠敷川がすぐそばを流れる谷間のゆるやかな登り道。
杉木立の中 道の傍に清流がせまってくる。間もなく鵜の瀬か・・・・・
杉木立の中を山腹に沿ってぐるりと山裾をまくと、すぐの道脇に沿って小さな公園が整備され、川岸に立つ「鵜の瀬」の案内板。南の上流側から 数m下を瀬になって清らかな水が流れ下り、木の小さな鳥居が鵜の瀬の河原へ降りる入口。
時折通る車以外誰もいない静寂に包まれた山間の川筋の景色。風がすぅ〜と通り抜けて心地よい。
ここが東大寺二月堂お水取りの若狭井とつながっているとのロマンの地「鵜の瀬」。

鵜の瀬             上流側より  2011.8.30.
 
 遠敷川 鵜の瀬 道路側 河原への降り口
 鵜の瀬の上流側      2011.8.30.
 
鵜の瀬この河原で 神宮寺の「閼伽井」で汲んだ水を 川に注ぎ 奈良 若狭井に送る「水送り」の神事が行われる
この瀬の中央の所に深い穴があり、奈良若狭井に続いているとの伝説

3月12日 鵜の瀬で行われる水送り神事  鵜の瀬公園資料館パネルより
道路側では車が止められないので、鵜の瀬の直ぐ南の鵜の瀬橋を渡って、白石神社がある向こう側に渡る。
橋を渡ったすぐのところから奥 林の中が、若狭一ノ宮 若狭彦神社・若狭姫神社の元宮である白石神社で、林の奥に小さな社が見えました。境内への入口すぐ横に東大寺建立に尽力した良弁和尚生誕地の碑がありました。
思わぬところで知る東大寺良弁のルーツ。
その横の川岸には水送り神事の解説や写真パネルなどの展示されている鵜の瀬公園資料館があり、川岸一帯が公園として整備され、駐車場もありました。また、川岸の一角には この遠敷川に沿って遡るこの道がいくつかある若狭街道の最短ルートで一番古い古道根来道の古道であるとの案内板がありました。
【鵜の瀬で目にした関係案内板の記】
                          鵜の瀬 鵜の瀬公園資料館にあった奈良東大寺お水取りと若狭 鵜の瀬 の関係を解説したパネル

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                   鵜の瀬公園 2011.8.30. (一部写真はインターネットより)
遠敷神とは若狭一ノ宮 若狭彦・姫神社に祭られている若狭の開拓神のことで、また、鵜の瀬にある白石神社は若狭一ノ宮若狭彦・姫神社の元宮と言われる。「白石」には新羅の転化との説もあり、対岸の水送り神事の行われる河原に若狭彦・姫神社の境外地がある若狭一ノ宮若狭彦・姫神社の聖地。 
また、今回 東大寺を建立した良弁の生誕地であり、しかも、この遠敷にやってきたインド僧実忠が東大寺大仏開眼法要を指導したということも知りました。
この地が遠い昔 1500年前 東アジア交流の真っただ中、多くの文物ばかりでなく、渡来の人も多く往来した国際的な海の玄関口。大陸・朝鮮半島から大和へつながる交流路「和鉄の道」の重要拠点でいたであったことを物語る伝承と思われる。
再度 道路側に戻って 水送り神事の行われる河原に降りる。
とうとうと瀬を清らかな水が流れ下ってゆく。 やっぱり 暑い時には水辺がいい。
何とはなしに晴れ晴れ 気持ちのいい鵜の瀬Walkでした。



    毎年3月2日 奈良東大寺のお水取りに先立つ お水送り神事が行われる鵜の瀬の河原

杉の巨木が立ち並ぶ 人っ子一人いない若狭彦神社のの境内
今風に言えば この境内もパワ-スポットだ

 
             杉の巨木が立ち並ぶ 人っ子一人いない若狭彦神社の境内
鵜瀬へ行く時にはパスした若狭彦神社へ帰るときに立ち寄りましたが、静寂の森に包まれた静かな空間 自然の中に埋没しているパワースポット。そんな静かな空間でした。
現代風にいうと 若者たちのパワースポットと騒がれそうな場所なんですが、若狭一ノ宮のお祭りがアクセスのいい遠敷の街中の若狭姫神社に移ってしまった為なのか アクセスが悪いからなのか 杉の巨木が立ち並ぶ境内に人っ子一人いない。遠く1500年前 若狭がもっとも輝いた時代のロマンを思い浮かべながら歩くにはもってこいの場所でした。
 
なお 今回は 京都 鯖街道としての若狭街道についてはふれませんでしたが、この鵜瀬を通る根来道も古い京への鯖街道です。
鵜瀬周辺を巡って 鵜瀬の橋まで帰ってくると浮き輪をつけて楽しそうにこの清流に身を任せて清流下りを楽しんでいる地元親子がいる。ここは格好の川遊びの場所・・・・と。
声をかけてさらに奥へ峠から朽木へ車で越えられるか聞いたのですが、どうも難しそう。
地図では奥の根来まで道が整備されているのですが、峠はどうも怪しそうである。
峠が越えられると芦生の演習林から久多・梅ノ木へ出て、現在の若狭街道・水坂峠越の道に合流できそうなのですが、
難しそうなのでちゃんと調べてからにする。

元来た道を引き返し、国道に出て上中町 熊川宿 水坂峠を越えて 
朽木・滋賀途中越えの現在の若狭街道を京都へ戻りました。


鵜瀬のいくつかの案内板に記された記録からは 奈良東大寺との密接なつながりばかりでなく、渡来の人たちの伝承もしっかり記されており、若狭が日本海側の大陸・朝鮮半島へのへの玄関口として、古くから交易ばかり出なく、文化交流の道が大和へつながっていることがよくわかった。
若狭は古代 朝鮮半島・大陸への日本海側窓口とよく言われるが、こんなに沢山の痕跡が現在の若狭の街中に生きて残っていることにもびっくり。遺跡や文物ばかりに目をやらず、街中歩きにも重要な資料と。

久しぶりに出かけた若狭walk 
晴天にも恵まれ、若狭の海・川・山・森のWalk
気持ちすっきりの楽しいwalkでした。

 若狭の名瀑 若狭上中 瓜割の滝  2011.8.30.
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2. 2011年古代大和の日本側玄関口玄関口「若狭」再訪
脇袋古墳群など若狭の王墓からの出土品見学
& 若狭小浜港・遠敷(おにゅう)の里 Walk
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2011.110.11.   1110unose03.htm  2011.10.05.  by Mutsu Nakanishi