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古墳時代 朝鮮半島との交流の玄関口「若狭」を再度訪ねる     2011.8.30. 
脇袋古墳群など若狭の王墓からの出土品見学 &  若狭小浜港・遠敷(おにゅう)の里 Walk

     2.古墳時代 朝鮮半島との交流の玄関口「若狭」を再度訪ねる 2011.8.30.

    2.2.若狭町歴史文化館で上中地域古墳群の出土遺物展示を見る   1110unose02a.htm

 
若狭町歴史文化館は若狭町の歴史・文化をまとめて展示した資料館。
展示の中心は 古墳時代 朝鮮半島の鉄を求めた大和が日本海側の窓口として密接に連携した若狭の国の王墓 脇袋古墳群ほか上中地域古墳群から出土した
朝鮮半島との交流を示す遺物や若狭の国の繁栄を示す遺物が数多く展示されていると聞く。

古墳時代 若狭が朝鮮半島の鉄入手とかかわる展示があるだろうか・・・・ 是非見たかった資料館である。

この若狭町歴史文化館は小浜船上中駅と国道27号線を挟んで反対側の南側に一筋入った駅からも見える大きな3階建 若狭町役場上中庁舎の建物の東半分を使って作られている。
2008年に脇袋古墳群を訪ねた時は時間切れで、見残した場所である。

庁舎玄関脇の駐車場に車を止めて中に入ると1階が広い展示場で、上中地域にある古墳群から出土した展示品がこれら古墳群の解説と共に展示され、
若狭の国がもっとも輝いた1500年前の古墳時代 若狭の国と大陸との結びつきについて常設展示している。
その内容は若狭町歴史文化館の常設展示図録にまとめられていました。

「鉄関係の展示など一部デジカメ写真撮らせてほしい」と声をかけて、展示室に入ってゆく。

「若狭地方と大和政権」の解説パネルにはじまり、若狭で一番古い前方後円墳が築かれた5世紀の脇袋古墳群ほかこの上中地域にある古墳群の主要古墳をそれぞれ年代別に解説パネルが作られ、出土遺物がその前に展示されていました。 

残念ながら 5世紀の脇袋古墳群の古墳主体部は未発掘などで、この古墳群から出土した鉄器出土品などは見られずでしたが、
ほかの古墳から出土した数多くの鉄遺物から、若狭の王などこの時代の首長にとって鉄器保有が重要な権威だったことが良く見える。
また、前方後円墳の大きさと共に立派な葺石・埴輪などに大和との連携の強さも垣間見え、
大陸への窓口であることを示す朝鮮半島系の遺物(数々の鉄製品 陶質土器片 金銅冠 轡などの馬具)や横穴式石室など先進的築造技術など朝鮮半島との交流も・・・・。



若狭町上中 若狭町歴史文化館の常設展示 上中地域の古墳群 2011.8.30.
 
一番先に眼が行ったのは古墳時代の大和と若狭ほか周辺諸国の古墳築造年代と形態の変化推移比較図。
古墳の大きさや形態の変化から大和との距離感が大きく変化してくる様子がよくわかる。

若狭地方の古墳
 
4世紀丹後や越前で先に前方後円墳が作られ、
その後5世紀になって若狭での築造が始まるのが見て取れる。

丹後では5世紀には前方後円墳がつくられなくなり、小さな円墳が築かれるのみで、その後消えてしまう。 
この時代 同時に若狭で前方後円墳の築造が始まり、6世紀半ばまで続き、円墳の築造へと移る。

 
4世紀丹後や越前で先に前方後円墳が作られ、その後 5世紀になって若狭での築造が始まるのが見て取れる。
丹後では5世紀には前方後円墳がつくられなくなり、小さな円墳が築かれるのみで、その後消えてしまう。 
この時代 同時に若狭で前方後円墳の築造が始まり、6世紀半ばまで続き、円墳の築造へと移る。
前方後円墳の築造が、独立国としての大和との同盟・連携の象徴とすると、その後 起こる小さな円墳築造への移行は大和の支配下へ組み込まれたことを示すのだろう。 
丹後や越前は玉作り工具などに鉄を使った鉄の先進地で、いち早く北部九州や朝鮮半島から鉄を入手していた。
朝鮮半島鉄を求める大和は まずこの丹後・越前と手を組み、朝鮮半島交易のベースを作りつつ、
さらに広範な大陸・朝鮮半島との交易・交流を求めて、交通の利便な若狭を窓口にしていったのではないかと見て取れる。
そして、若狭の国力が上がるにつれ、丹後の国力が衰退し、大和の支配下へ組み込まれていったのだろう。
若狭町歴史文化館に来る前に 東小浜にある福井県立歴史民俗資料館で見た「若狭沿岸の大型古墳と豪族の居館パネル展示」にも、
若狭・丹後の古墳群の変遷・特徴を判りやすく解説したパネル展示されていましたので、下記に概要表示しました。


福井県立歴史民俗資料館で 「若狭沿岸の大型古墳と豪族の居館」パネル展示より 2011.8.30.


「丹後・若狭 どちらが 朝鮮半島交易のメインだったのだろうか」と考えていたが、
この前方後円墳築造の変遷図を見ると4世紀の丹後から5世紀若狭に移って行ったと見て取れる。
なお、若狭の特産品「めのう細工」があり、若狭の鉄と玉造が関係するかと思いましたが、
このめのう加工技術が若狭に伝わったのは奈良時代に玉を信仰する鰐族(王仁・わにぞく)が渡来し、遠敷(おにゅう)の郷に伝えたのがはじまり。
若狭の隆盛期からは時代が下り、やはり 天然の良港であり、また 大和・国内交通の利便性を有する日本海側の天然の良港であったことが、
古墳時代の若狭の隆盛の基であろう。
ただし、この若狭隆盛と時を同じくして 「御食国・若狭」として海産物そして製塩が若狭の特産として大和などへ送られたという。


若狭 食満遺跡出土の土器片と若狭の古墳築造と製塩土器の変遷  若狭町歴史文化館展示より

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