最近 読んだ本に文言は正確ではないが、古代の日本海交易・鉄を求める朝鮮半島交易の窓口としての「若狭」の位置づけについて、下記のように記されていた。 交易の窓口は勿論文物・人・文化交流の窓口でもあった。
「 朝鮮半島の鉄を求める畿内・大和の日本海側交易の窓口は当初 丹後や山陰・北陸など。
そして その後 若狭に移る。
丹後などは、流通拠点というより、鉄の消費地。
その後 鉄の需要拡大と共に 国内交通の利便性の良い若狭に移った」と。
「若狭」は古代 大和・畿内から北部九州・大陸・朝鮮半島を結ぶ交易ルートの窓口。
朝鮮半島の鉄を求めて3世紀
邪馬台国の時代から「和鉄の道」が通っていたに違いなく、数々の朝鮮半島との交流を示す遺物や鉄製品遺物が残されている。
この「若狭」の国の中心が若狭町上中地域(旧上中町)で、若狭の王墓とみられる数多くの古墳が築かれ、大和との結びつきを示す前方後円墳も数多く残されている。以前にもこの地を訪れたことがあるのですが、今回この上中地域の古墳群から出土した朝鮮半島との交流の歴史を示す遺物を見たくて、若狭町歴史文化館を訪ねました。
また、奈良東大寺2月堂のお水取りで汲まれる「若狭井」の水は若狭からの湧水とする伝承の里「遠敷(おにゅう)の里」
そして、大陸・朝鮮半島の日本海側の玄関口「若狭の湊」のイメージをはっきりしたくて、再度若狭・小浜の港を訪ねました。
今回の若狭再訪で、1500年前 東アジア交流の真っただ中、国際的な海の玄関口として「若狭」がもっとも輝いた時代
鏡のような穏やかな広い内海を持つ巾着型の小浜の港の良さ・若狭の王墓 前方後円墳から出てきた鉄ならびに朝鮮系の遺物の数々。
そして、数々の文物・技術を持つ渡来人がこの若狭から大和へ登って行ったことを示す遠敷川 鵜の瀬の伝承等々
大陸・朝鮮半島から大和へつながる交流路「若狭」の姿を知ることができました。
もやもやしていた若狭の実像が浮かび上がってきて 我ながらびっくりです。
なお 上記した古代「若狭」の実像には若狭への出入口 北近江・琵琶湖とのかかわりも欠かせないので、2008年に同じ「和鉄の道」
のテーマを頭に歩いた若狭の訪問記を本若狭再訪記のTOPに記させていただきました。
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