弥生後期から卑弥呼の時代へ ベールを脱いだ「弥生のIron
Road 和鉄の道」
淡路島 五斗長垣内遺跡の謎 シンポ2010.11.21.
聴講 して
1.五斗長垣内遺跡の概要
2.五斗長垣内鍛冶遺跡の役割と時代的位置づけ
3.「播磨灘と五斗長垣内遺跡を考える
瀬戸内をめぐる交流・地域間関係」
4.弥生時代後期 近畿でも急速に実用鉄器化が進んだことを示す石の刃物の変化
5.まとめ
5. まとめ
平成21年1月 「卑弥呼の時代に入る前夜 弥生時代の後期 1世紀初頭から2世紀末までの約170年間 淡路島の北部の丘陵地に継続して営まれ、卑弥呼の時代の到来に呼応するかのように 周辺の集落群とともに消えて行った日本最大級の鍛冶工房遺跡 五斗長垣内遺跡」が出土したと発表され、この鍛冶工房の位置づけ・役割の解明が日本の古代史を解き明かす鍵になるとセンセーショナルに取り上げられた。
時代は石器から鉄器へ移り変わる時代 豊かな農耕文化が花開くとともに集落の拡大連携による集団化が進み、次第に地域集団さらに地域首長国へと展開し、この地域終端の拡大の中で 西日本では弥生の戦さが繰り広げられた時代である。
日本各地で鉄器に対するイメージは異なっていたとしても、西から東へ 大陸・朝鮮半島の新技術とともに鉄器の重要性が強く意識され、近畿・畿内を含む西日本ではその使用が急速に進んでいった時代である。
そんな時代背景の中 忽然と鉄の空白地 淡路島に出現した竪穴住居23棟 うち13棟が鍛冶工房という日本最大級の鍛冶工房遺跡 五斗長垣内遺跡。
発掘から2年 これまでの調査で分かったことを中心にこの五斗長垣内遺跡が謎に包まれたこの時代をどのように語るのか??
興味津々の連続講演会とシンポジュームでした。
最大の関心事は この五斗長垣内遺跡の役割と位置づけ 五斗長垣内遺跡の謎の解明である
1. この鍛冶工房を統治していたのは 誰なのか? そして 卑弥呼の邪馬台国
& 初期大和王権へとつながる大鍛冶工房なのか?
2. まだ、鉄素材を朝鮮半島に頼らねばならぬ時代
鉄の先進地 北部九州から どんなルートがこの淡路島・
畿内へ伸びていたのだろうか?
調査検討が継続中の今 まだまだ 解明には時間がかかると思っていましたが、
いつも 断片的にしかもセンセーショナルにしか語られなかったこの時代が冷静に語られ、
よく知らなかったこと 見えてこなかったことが 数多く頭の中に入ったことは大きな収穫でした。
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● この五斗長垣内遺跡の役割と位置づけ 五斗長垣内遺跡の謎の解明
五斗長垣内遺跡は卑弥呼・大和王権の時代につながる畿内の広域鉄流通の供給基地の先駆けかとも思っていましたが、
村上恭通氏は鍛冶工房の質・周辺の高地性集落との同時性などから
垣内遺跡周辺の淡路島の狭い地域が対象の鉄器基地との考えを話された。
ちょっと残念な気もしますが、気になっていた五斗長垣内遺跡の鍛冶炉や出土鉄製品の規模を考えると納得。
芦屋の高地性集落・会下山遺跡にも鍛冶工房があったと聞くし、西日本の高地性集落には鍛冶工房を持つものが少なからずあると聞く。
先日聞いた阿蘇の阿蘇谷の鉄集積の集落群 鉄の集積の大きな妻木晩田遺跡等々を考えるとこの五斗長垣内遺跡を卑弥呼・大和の時代へつなぐ大流通拠点と考えるのは現時点ではちょっと騒ぎすぎなのかもしれない。
鉄器生産の技術は、朝鮮半島から九州北部を経て、日本海、瀬戸内海沿いなど複数ルートで東へ伝わったとされ、
広域の鉄の流通経路「弥生のIron
Road」があったのは事実。
しかし、この「弥生のIron
Road」上で この「五斗長垣内鍛冶工房遺跡」がもっと広い地域にまで役割を演じていたのかどうかは
研究者の間でまだ 意見が分かれているようだ。
この時代 鉄の流通路を握る北部九州に対抗して、この鉄の流通路の確保を求めて、地域連携・集団化が進み、数多くの高地性集落を生む「戦さ」の時代。 そんな中で 約170年間も継続的に維持され かつ東瀬戸内をにらむ重要地点である。
西から東への鉄伝播の最前線の位置にあるこの鍛冶工房遺跡がもっと大きな役割を演じていたかもしれないとする学者も多い。
この五斗長垣内遺跡の役割の解明はまだ これからであろう。
連続講演会で講演された・兵庫県芦屋市教委文化財担当主査森岡秀人氏は
「五斗長垣内遺跡は近畿に本格的な鉄器社会到来を証する重要な遺跡。近畿と瀬戸内の中継点として、鍛造技術の導入や製品の流通に
大きな役割を果たしたのではないか?この謎を解く鍵は鉄と交換された見返り品が何であったかだろう」と。
五斗長垣内遺跡の役割の解明はまだまだ これから。
来年3月にはこの五斗長垣内遺跡の発掘調査報告書が完成すると聞きました。どんな新しい知見が盛り込まれるか 楽しみでもある
今後の解明検討に期待したい。
また、この五斗長垣内遺跡の保存化が決まり、この五斗長地域連携の中で遺跡の整備・国史跡指定化がすすめられているのもうれしい。
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● 高地性集落の意味づけが今回のシンポで浮かび上がってきて、頭の中に納得で入ったのも収穫。
高地性集落が周辺の集落と連携した鉄ばかりでなく 色々な物の生産基地の性格があることも面白い。
戦さに備えて高地性集落が周辺の集落連携で周辺の敵を監視する機能を主にイメージしていましたが、
平時には周辺集落連携の共同生産工房として機能し、戦になると周辺集落の逃げ込み場の役割を担っていたのかもしれない。
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● 常々頭にあった明石川流域の弥生の高地性集落群の位置づけ
禰宜田佳男氏は明石海峡を挟んで淡路島がすぐ目の前 播磨と摂津の国境地帯をなす明石川領域は西から東への交流路の重要地点と指摘する。明石海峡に落ちる六甲の山並の国境越が西から瀬戸内海沿岸を進んできた交流路の大きなバリアになると実感していましたが、
それが取りあけられたような気になっています。
六甲山脈の険しい山並みが神戸の西で海に落ちる地点で丘陵地が連なるところで、この明石川沿いは早くから開け、幾つもの高地性集落を伴う弥生の集落群があり、弥生・古代の流通路は六甲の山並みと明石海峡の急流に阻まれ、海岸沿いを離れ、明石川を遡って山を越えてゆく。
畿内地域に入る厳しい六甲の山越えが 日本海側から播磨そして四国へ南北につながる鉄の最前線を作り、
この最前線を境に西と東での大きな鉄器普及の差を生んだのかもしれない。
そのバリアを越える重要ポイントが 淡路島であり、明石川流域。
ごく近隣で何度も足を運んだ地点が高く評価され、謎を解く鍵になるかと思うとうれしくなる。
播磨・摂津の国境周辺を 淡路島側(写真左) 須磨旗振山側(写真右) から眺める