村上恭通氏の意見要旨は次の通り。
@ 炉床編年でW期(床上で直接火入れを実施、炉として溶解に必要な高温を維持できない)800度程度が限界だったと考えられる。
また、出土する鉄製品は大型の鉄器はみあたらず、小物の鉄器製作であり、
薄い鉄素材か棒状の小さい鉄素材を鏨切り加工で鉄製品を作った鍛冶工房と考えられる。
断裁鉄片も多数みつかっており、北部九州のような本格的な高温鍛接技術は入っていない。
A 北九州で始まった鉄の鍛冶加工の弥生時代中期以降の歴史をたどると鉄器の普及は東から西へ前進するその過程で
時代が後になるほど、鍛冶炉が簡易型に退化する傾向がみられ、この五斗長垣内遺跡の鍛冶炉も退化簡易型の鍛冶炉の
流れの中にあり、羽口も出土していない。
B 鍛冶工房内で見つかった大型鉄製品は当初鉄素材か?と期待されたが、板状鉄斧と判明。
鍛冶炉の構造などからするとこの厚くて硬い板状鉄斧を鉄素材として使いこなせる技術はなかったと考えられる。
これらを合わせ考えてゆくと 現段階では この鍛冶工房が大和や卑弥呼など大集団とつながる広域流通の鍛冶工房とは考えられず、
周辺近隣集団へ小物鉄器中心の鉄器を提供する鍛冶工房であると考えられる。
(卑弥呼の時代にはこの鍛冶工房は消失。周辺の集落もほとんど消失して 卑弥呼の時代まで集落の継続もない)
この五斗長垣内遺跡の役割は 現段階では周辺近隣集落群の連携対象の鍛冶工房であったと淡路の狭い地域対象の鍛冶工房と考えたい。「五斗長垣内遺跡は卑弥呼・大和王権の時代につながる畿内の広域鉄流通の供給基地の先駆けではないか???」と
古代のロマンを夢見てきましたが、どうもそうとは言えないというのが、現段階の結論のようだ。
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