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弥生後期から卑弥呼の時代へ ベールを脱いだ「弥生のIron Road 和鉄の道」
淡路島 五斗長垣内遺跡の謎 シンポ2010.11.21. 聴講 して
 1.五斗長垣内遺跡の概要 
 2.五斗長垣内鍛冶遺跡の役割と時代的位置づけ
 3.「播磨灘と五斗長垣内遺跡を考える 瀬戸内をめぐる交流・地域間関係」
 4.弥生時代後期 近畿でも急速に実用鉄器化が進んだことを示す石の刃物の変化
 5.まとめ

3. 弥生後期の和鉄の道・Iron Road 
  大久保徹也氏(徳島文理大教授)講演
「播磨灘と五斗長垣内遺跡を考える 瀬戸内をめぐる交流・地域間関係」より整理  

淡路島の西 瀬戸内海 児島湾・小豆島地域の弥生集落遺跡は弥生中期〜中期末に集中し、後期には消失する。
一方この時期に淡路では集落が集中する。これら瀬戸内沿岸の集落の立地パターンは「海浜作業場+山麓の谷筋奥の居住地+高地性集落」となっていて、これらの集落が相互に連携していた。
一つの高地性集落では全方位を見渡すことができないが、周辺の高地性集落が連携すると全方位が監視でき、この連携が行われていたのではないかと大久保徹也氏は指摘する。

               瀬戸内海 備讃瀬戸・播磨灘周辺の高地性集落の連携による全方位監視の推定
  
                 弥生後期 岡山児島半島の集落分布             弥生後期 淡路島北部の集落分布
           弥生時代 後期  東部瀬戸内海・淡路島北部のの弥生の集落分布
     「海浜作業場+山麓の谷筋奥の居住地+高地性集落」の集落構成パターンで、相互に連携していたと考えられる
 
五斗長垣内遺跡周辺の淡路島 北部綱丘陵地周辺の集落群も同じような集落連携が組まれていたであろうと推定する。
そして、これらの集落群は 戦さが落ちつく後期末には ほとんどが次の時代に継続することなく消失する。
また、この地域のモノの動き・交流を初期土器製塩資料分布・銅鐸分布の変遷・大阪湾型銅戈&銅剣分布・鏡分布などから眺めて整理すると吉備・播磨・讃岐・阿波連携の面白い姿が浮かび上がってくる。
「讃岐・吉備・播磨の交流は ちょうど時計回りに交流伝播が進んだように見える」という。

これを淡路島で見ると淡路の結びつきは明石海峡側からで、鳴門海峡側からの交流路は弱いという。

このことから大久保氏は五斗長垣内遺跡へつながる鉄の道は 徳島側から淡路島へ入ったのでなくて、吉備・播磨側からであろうと推定する。 阿波もまた矢野遺跡など北部九州とつながる鉄の先進地の一つであるが、阿波から淡路へのルートはこの時代弱いとみられる。
大久保氏の指摘する時計回りの東瀬戸内交流路や東瀬戸内の土器分布から見た地域交流から見ると、瀬戸内東部・大阪湾を時計回りに回るルードが西から東へ 畿内への交流路 「弥生時代の和鉄の道 瀬戸内のIRON ROAD」と推定される。
当初 阿波から淡路や紀伊への流通路も想定されると思っていましたが、この道は弱いようだ。
                      弥生時代の和鉄の道 瀬戸内のIRON ROAD
大久保氏の指摘する時計回りの東瀬戸内交流路や東瀬戸内の土器分布から見た地域交流から見ると、
東瀬戸内・大阪湾を時計回りに回るルードが 西から東へ東瀬戸内・畿内への交流路 「弥生時代の和鉄の道 瀬戸内のIRON ROAD」と推定される。
当初 阿波から淡路や紀伊への流通路も想定されると思っていましたが、この道は弱いようだ。
村上恭通氏が指摘する弥生後期の実用鉄器伝播の最前線が播磨・淡路・阿波のラインと符合するのも興味深い。
鉄器生産の技術は、朝鮮半島から九州北部を経て、日本海、瀬戸内海沿いなど複数ルートで東へ伝わったとされるが、
その実態はよくわかっていないのが実状。
空白地帯と言ってもよかったこの五斗長垣内遺跡の出現で、そのルートがかなりクリヤーになってきた。
今後さらに解析・研究が進めば この五斗長垣内遺跡「弥生のIron Road」を解き明かしてくれると期待する。


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1012gossa03.htm   2010.12.15.  by Mutsu Nakanishi