鬼ノ城は眼下に古代吉備の中心地 総社平野を見下ろす高さ約400mの険しい山腹を持つ鬼城山の8合目周辺を鉢巻場に土塁や石垣で取り囲んだ古代の山城。 城壁の長さは約2.8km。囲まれた城内約30.6ha。
城壁の東西南北4ケ所には城門があり、雨水を城外へ排出するための水門が6ケ所もうけられ、城内中心部には礎石建物が7棟確認され、東門の上方へ伸びる小さな尾根筋には鍛冶炉11ケ所が出土した大規模な鍛冶工房が確認されている。
山を鉢巻状に土塁や石垣で取り囲み、内部に建物を配置する構造は古代朝鮮半島の様式を色濃く持っており、西暦663年の朝鮮半島白村江での敗戦後、唐・新羅の来襲を恐れた大和王権が国土防衛のため、渡来した百済人などの指導で構築した古代朝鮮様式の山城とみられる。しかし、公式的な記録はなく、この山城の性格については不明な点が多い。
今回大規模な鉄器製作鍛冶工房が城内にあったことから、白村江で敗れた大和が唐の国内侵攻を恐れて築城した山城の性格が強い。また、「鬼ノ城」の名が示すとおり、山城が築かれる前から険しい山であるこの地は要塞の適地として、「温羅」の城であったとの伝承が残る。
南北に伸びる山の東山腹は急峻な崖が連なり、その麓
奥坂・阿曽の郷は「真金吹く吉備」の古代製鉄の中心地で、渡来の製鉄鍛冶集団が居た場所。この奥坂で作られた鉄が山上の鍛冶工房に運び込まれ、工具や武器に加工されたのかもしれない。「鬼ノ城」と古代吉備の製鉄の中心地「奥坂」をつなぐ「鬼ノ城鍛冶工房の出土」であり、「鬼・温羅」にされたこの奥坂の製鉄集団の重要性が、現実味を帯びて浮かび上がってきたといえる。
そんな古代の奥坂製鉄遺跡群の真ん中に日本最古の千引カナクロ谷製鉄遺跡がある。
今は鬼ノ城GCの池の中に眠っているというが、どんなところなのか知らない。
今回はぜひ奥坂を見下ろせる鬼ノ城からその場所を確認したい。