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2.2.若狭町歴史文化館で上中地域古墳群の出土遺物展示を見る
【若狭町歴史文化館 上中地域の古墳群から出土した遺物】   1110unose02b.htm
 
弥生時代後期末から古墳時代への移行期(2−3世紀)日本黎明の時代、日本各地には邪馬台国はじめとする地域王権・国が興り、この時代の先進地であった大陸・朝鮮との交流が進む。 大和・畿内から文化・技術の先進地 大陸・朝鮮半島や北部九州への交流路として、瀬戸内海と日本海沿岸を北部九州へたどる2つの道があり、日本海沿岸では「丹後」そして少し下って、「若狭」が日本海側交流路の窓口となったと言われる。

このような国や首長・王の台頭は墓制の変化として現れ、丹後では、方形台状墓から大型前方後円墳の造営があり、北陸・越前では、四隅突出型墳丘墓から前方後方または前方後円墳の造営があった。若狭地方の弥生時代後期末の墓制は、土壙墓または方形周溝墓が主流であったが、4世紀前半に松尾谷に前方後方墳が現れる。
 

継続的な前方後円墳の築造は、5世紀初の上ノ塚古墳(脇袋古墳群)に始まり、5世紀半 城山古墳・向山1号墳そして西塚古墳(脇袋古墳群)から6世紀初の十善の森古墳群を経て 上船津古墳 6世紀半ばの下船塚古墳まで、上中地域を中心に前方後円墳が築かれてゆく。若狭の国が大和と結びついて日本海交流路の窓口として栄える時期と符合する。
そして、6世紀中頃から従来の大型前方後円墳に変わり、丸山塚古墳や大谷古墳のような円墳が作られるようになり、大和政権の支配が強く及んだ結果と理解され、その後7世紀 国家としての体制を整えた大和の「国造」などの律令体制の中にくみこまれていったのだろう。 
この間 若狭は日本海沿岸・大陸・朝鮮半島への大和の玄関口であり続け、
若狭は「御食国」として繁栄し、数多くの渡来人・文物そして「鉄」が若狭を経由して 大和・日本各地に広がっていった。
 
                                                           (若狭町歴史文化館の常設展示図録より拾い読み整理)
  若狭の古墳出土品展示  [前] 左 城山古墳出土円筒埴輪  中央 松尾谷古墳出土鉄器 右 上ノ塚古墳出土埴輪片
   4世紀〜5世紀半      [後] 左 三生野遺跡から当時の朝鮮半島の陶質土器中央 松尾谷古墳出土土器 右 製塩土器片
   5世紀半 向山1号墳の多彩な出土品              6世紀初 十善の森古墳出土遺物  多彩な出土品
 松尾谷古墳 4世紀前半 若狭で前方後円墳に先立ち造られた前方後方墳
松尾谷古墳・前方後方墳( 手前が前方部) 
若狭で前方後円墳に先立ち4世紀前半に造られた前方後方墳 松尾谷古墳。

若狭町南前川字松尾谷の尾根にあり、若狭における最初の地域首長墳である。

前方後円墳は初期大和政権との結びつきが少し弱いか 下位に位置づけられる場合の古墳形式であるが、大和政権と若狭との連携の始まりを示している。
主体部は3つ。それぞれ木棺が直葬され、出土したものとしてヤリガンナ・碧玉製管玉鉄剣、鉄槍、鉄鏃などが知られている。
しかし、すでに水源地建設の為、消滅しているという。
●  脇袋古墳群 上ノ塚古墳  5世紀初の前方後円墳  若狭で最初に造られた前方後円墳
5世紀初 若狭で最初に造られた前方後円墳で
かつの狭地方最大の前方後円墳。
  全 長  100m
  円部径   64m(高さ9m)
  前方部幅   60m(高さ7m)
古墳の主要部である主体部が発掘調査されていないので、副葬された遺物は未調査である。

この上ノ塚古墳からは家形埴輪片・円筒埴輪片・朝顔型埴輪片が出土している。

    ● 日本最古の横穴式石室 5世紀半の前方後円墳 向山1号墳
脇袋古墳群の西1.5kmの尾根上に造られた前方後円墳で、日本最古の横穴式石室を持ち、韓国あるいは九州から伝わったと考えられている。
中規模ながら2段に造られ、葺石・埴輪を備え、
数多くの鉄器など多彩の副葬品が出土した。
 
● 西塚古墳 脇袋古墳群  5世紀後半の前方後円墳 
脇袋古墳群にある5世紀後半の前方後円墳で、竪穴系横口式石室を持ち、大陸の影響を受けた形態をしているという。
前方後円墳の中央部の土が剥ぎ取られ、現在は後円部と前方部を残すのみとなっているが、金製耳飾り・鏡・金銅製帯金具
銀鈴・銅鈴・馬具・冑など多彩な副葬品が出土。
 
 
● 十善の森古墳  数々の朝鮮半島系遺物が出土した6世紀初 前方後円墳 
 
 
金銅製冠 復元
6世紀初の前方後円墳。 
後円部と前方部に形態が異なる横穴式石室が二基あり、
両石室ともに壁面に赤色顔料塗布。

墳丘から円筒埴輪が出土し、周濠をもつ。
 

後円部石室から流雲文縁方格規矩四神鏡、金銅製冠・履、玉類(水晶・ガラス製勾玉、金銅製帯金具、碧玉製管玉、ガラス製小玉・なつめ玉など)、武器、武具、馬具(鉄地金銅張双龍文鈴付鏡板、鉄地金銅張剣菱形鈴付杏葉、木心鉄板張輪鐙片など)などが出土。
伽耶産の金銅製轡とともに百済系の金銅製冠・履やとんぼ玉の出土が注目されている。

 十善の森古墳出土遺物  多彩な出土品
 
6世紀前半 新たな日韓交流の始まりを示す十善の森古墳
近年 朝鮮半島南西部の栄山江流域を中心に6世紀前半頃の前方後円墳群が発見され、若狭や北部九州同じ墳丘や石室を持つものがあり、
高句麗の南下や伽耶をめぐる新羅との)攻防などに対し、百済・倭双方が緊密な関係を結んだ結果の表れ。
それまで、倭の五王は伽耶との関係を重要視してきましたが、
6世紀になると百済地域の重要性が増し、若狭の王たちも北部九州・越前の勢力とともに積極的に対百済外交を展開。
この動きが継体大王擁立の原動力になってゆく。
十善の森古墳では伽耶産の金銅製轡もでているが、百済との交流開始を直接裏付ける百済系の金銅製冠・履やトンボが出土し注目されます。
 
                                                        ( 若狭町歴史文化館の常設展示図録より整理)

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 1110unose02b.htm  2011.10.05.  by Mutsu Nakanishi