でも 今回 布留遺跡について「大布留展」を実際に見て、図録に書かれた遺構・遺物の出土状況 そして講演会聴講で聞いた話しを総合するとどうも、布留遺跡について 思い込みが強すぎたのかなぁ・・・・と。
布留遺跡では 鍛冶工房群と見られる竪穴住居群遺構や鉄滓・鞴羽口や砥石などが出土しているが、
残念ながら鍛冶炉や鍛冶工房の内部配置はよく判らず、意外すぎるほど膨らましていたイメージとのギャップが大きいと感じました。
また、鍛冶工房遺構から鉄の遺物が数多く出ることは少ないと承知はしているのですが、国の軍事を担った集団の中枢鍛冶工房遺跡。
そして 弥生から古墳時代の移り変わりに大きな役割を果たしたといわれる「鉄」。
当時 半島から多くの鍛冶集団が日本にわたってきたといわれ、韓式土器など布留の遺物からもそれが見て取れる。
その先進の鍛造鍛冶・そして製鉄へとつながる精錬鍛冶の遺構がひょっとして 見られるのではないか・・ と思っていましたが、
どうも違うようだ。
日本各地に興った国々が争った弥生の終末期から古墳時代前期へ
でも「この初期大和王権の時代は軍事といっても《戦闘》というより、《祭祀》とのつながりが強いのではないか???」
布留遺跡では そう思えるほど 祭祀遺構・遺物が数多く出土している。
また、祭祀にも関係すると思われる玉工房と鍛冶との結び月を示す大量の玉遺物が遺跡のあちこちから出土している
日本海沿岸諸国の鍛冶工房そして四国阿波の矢野遺跡など同じく、「玉作りの生産工房の工具作りの鍛冶工房」というのが、この布留の鍛冶工房の性格のように見える。確かに多数の刀剣装具類が出土しているが、これも鍛冶作業は威信材の装飾副次作業といえなくもない。
そう 考えると布留の前の時代 邪馬台国 祭祀をつかさどる卑弥呼の女王国にもつながるのですが・・。
どうでしょうか・・・・・
一方 軍事としての武器・武具を頭に置くと鉄族は別にして イメージ的には 厚い鉄素材を使った鍛造鍛冶が目に浮かぶ。
国土開拓の農工具もそうだろう。
北部九州博多遺跡では いち早く自分たちの技術にした高温加熱加工・鍛造技術を使って、鉄板を重ねて厚手の丈夫な鉄器など 鍛造加工技術がどんどん進んでいったという。
布留遺跡の鍛冶工房の先進性を示すイメージがないのは 大型鉄素材やトピックス的な鉄器遺物が出ていないためか・・・
それとも そんなニーズは まだこの時代には必要なかったのかもしれない。
大布留展でも布留遺跡の鉄製品出土遺物をきっちり 見た記憶がなく、インターネットを当たったり記憶をたどったりしているのですが、よく判らない。
ひょっとして鉄鏃があったかもしれませんが、この時代大きな鉄製品が作れる工房は北部九州に限られ、小さな製品は腐食でなくなって出土しないのかもしれません。布留遺跡の鍛冶工房と玉作りとの関係が頭にあったので展示されていれば、その工具類を確かめたはずと。
6月に参加した橿考研での講演会で 布留遺跡の鉄製品として 小さな鏨加工品がいくつか スライドで映し出されているのを見ましたのでクリヤーではありませんが、布留の鍛冶工房はまだ 弥生時代の鍛冶が主体だと思われます。
ちょっと 鉄器万能論から少し後ろに下がった目でこの古墳時代の大和の鉄器工房群を見ないといけないのかもしれない。頭は色々揺れ動くのですが、まだ、布留遺跡の未調査部分も多く、布留の氾濫原の広がりを考えるとこれからまだ何が出てくるか 興味深々。