今は本当にタイムスリップしたように、静かな家並みが残るだけにっているが、かつては大いに繁栄した赤穂藩の商港
この地の特産の「塩」や各地の産物を運ぶ廻船業で栄えた様子がそのまま残る
明治時代になって 塩が政府専売になると廻船問屋は銀行業などに転換して 町の発展を支えた
そんな 街の中心 シンボル的存在が坂越湾と街全体を見渡せる背後の山裾にある大避神社
この地を開拓し、この地で没したとの伝承が残る秦河勝を祭る神社である。
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秦河勝を祭る大避神社
坂越の町の中央にある駐車場のところからまっすぐ北へ家並みの間を山裾に向かう石畳に整備された参道と行くと石の鳥居があり、その向こう石段の上に神門がみえ、その奥の境内に秦河勝を祭る本殿がありました。立派な神社でびっくり。
毎年10月に行われる大避神社の「船祭り」は江戸時代初期からの歴史を持つ祭礼で、瀬戸内海三大祭りの一つという。
境内からは 坂越湾が見渡せ、街の直ぐ上に 秦河勝の墓がある生島が浮かぶ。 また、左手湾の外れの山腹には昭和の金山ではあるが、大泊鉱山跡がある。 秦氏がこの地に進出したのも、この海岸まで 吉備・播磨国境を南北に連なる山地の鉱物資源だったのだろうか・・
今まであまり頭になかった秦氏の鍛冶技術についての足跡。 葛城氏と共に韓鍛冶の技術を継承広める一翼を秦氏も担っていたのかも知れない。その足跡が西播磨・坂越地域の鉱物資源開発に残っているのかもしれない。播磨というと奥播磨 宍粟・千種の「鉄」ばかりに頭がありましたが、播磨海岸沿いにある古代初期の古墳群もまた鍛冶の痕跡であるのかも知れない。
絵馬堂には船絵馬と共に舞楽・能の祖を祀る絵馬が数多く奉納され、秦氏が数多くの渡来人を引き連れてやってきて、諸国で数多くの技術・芸能を伝えた痕跡と思われる。 本当に近くに居ながら 知らなかった砂越の歴史です。
坂越の街の背後の山裾にある大避神社 2010.3.14.
境内からは街の向こう坂越湾に浮かぶ祭神秦河勝の墓がある生島が見晴らせる
大避神社境内の絵馬堂に奉納された数々の絵馬
能・舞楽の祖といわれる秦河勝 絵馬堂には船絵馬と共に舞楽・能の祖を祭る絵馬が数多く奉納されている