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 4. 阿波 鍛冶工房から砂鉄が出土した弥生の大集落「矢野遺跡」を訪ねる
     4.1.板野古墳群の山麓にある徳島県埋蔵文化財センターへ 
       4.2.鮎喰川の扇状地に開けた阿波王城の地 弥生の大集落 矢野遺跡のある国府地区へ
  4.3.「村から国へ」弥生の大集落 矢野遺跡のある国府walk 
  4.4. 阿波 弥生の鍛冶工房 矢野遺跡を訪ねる まとめ        鍛冶工房で出土した砂鉄の使い道は???? 

4.3.「村から国へ」弥生の大集落 矢野遺跡のある国府 walk     1003awa03a-c.htm
        弥生の大集落 矢野遺跡のある国府地区
● 阿波の先端技術〔玉造り・朱・鉄器〕を育んだ弥生の大集落遺跡 
● 矢野遺跡と大和との密接な関係を示す徳島県最古の前方後円墳 宮谷古墳
4.3.1. 気延山古墳群の盟主 矢野古墳へ

4.3.2.  大和との強い結びつき 三角縁神獣鏡が出土した前方後円墳 宮谷古墳から阿波国分寺跡へ
4.3.3.  阿波 国分寺跡 現在は四国霊場15番 国分寺
4.3.4.  国道192号線の下に眠る古墳時代初頭(庄内式併行期)の矢野遺跡    砂鉄が出土した鍛冶工房跡を探す
徳島市考古館
矢野古墳阿波史跡公園・宮谷古墳国分寺
国府町を南北に貫く国道192号 矢野遺跡〔矢野銅鐸出土地・鍛冶工房跡地〕国道192を北へ→
観音交差点付近〔阿波国府 観音寺遺跡〕→観音T字絽を東へ徳島市街地へ→上鮎喰橋〔鮎喰遺跡周辺〕→
徳島大蔵本キャンパス〔庄・蔵本遺跡〕→徳島駅→国道11号線を北へ→吉野川大橋→鳴門IC→鳴門大橋→神戸

4.3.4. 国道192号線の下に眠る古墳時代初頭(庄内式併行期)の矢野遺跡
                       砂鉄が出土した鍛冶工房跡を探す  1003awa03c.htm

鍛冶工房の中から壷に入れた砂鉄を出土した鍛冶工房跡地を探す

                壷に入れた砂鉄が出土した鍛冶工房があった跡地周辺 矢野遺跡U
現在国道の中央部は幅の広い未使用帯でその両側に車道がつけられている。
完全に埋め戻されているが、この未使用帯の下に弥生の大集落遺跡 矢野遺跡 が眠っている。
国分寺から再度 国道192号線に戻り、南から北へ。 
砂鉄を出土した鍛冶工房跡に立つことを目指す。
考古資料館で矢野銅鐸出土地を教えてもらったので、そこから200mほど南へ下がった国道192号線の道路上がほぼ 砂鉄を出土した鍛冶工房跡地である。家に帰って 資料を調べていたら 矢野U群から出土した竪穴住居跡の分布図をみつけました。上記右の写真。
その中にその中に 鍛冶工房跡が記載されているのをみつけました。
正確ではありませんが 鍛冶工房跡が教えてもらった位置とほぼ同じ付近であると確認できました。
● 砂鉄を入れた壷が住居内から出土し3世紀後半の鍛冶工房跡 SB 2044
● 弥生中期末1世紀後半にあった鍛冶工房跡 SB2037
 
先ほどの阿波史跡公園からまっすぐ東に下った国道192号線 矢野の信号から南に折れ、ひとつ南の信号周辺が鍛冶工房跡周辺である。
ちょうど国分寺の東側あたりになる。
西側には気延山の山並み 北には吉野川の向こうに阿讃山脈の山々。直ぐ南側には気延山の連山の南端を巻いて北東へ方向を変えながら眉山のふもとを流れ下る鮎喰川。そんな気延山と鮎喰川で挟まれた広い田園地帯のど真ん中を南端の鮎喰川からまっすぐ北へ気延山の山並みに沿って国府地区を国道192がつらぬく。現在国道の中央部は幅の広い未使用帯で、その両側に車道がつけられている。この未使用帯の下に弥生の大集落遺跡矢野遺跡が眠っている。
矢野遺跡 遺構配置図
先ほど阿波史跡公園からまっすぐ東に下った国道192号線矢野信号からひとつ南の信号周辺が鍛冶工房跡が出土した周辺である。
ちょうど国分寺の東側あたりになる。西側には気延山の山並み 北には吉野川の向こうに阿讃山脈の山々 直ぐ南側には 気延山の連山の南端を巻いて北東へ方向を変えながら眉山のふもとを流れ下る鮎喰川。そんな気延山と鮎喰川で挟まれた広い田園地帯のど真ん中を南端の鮎喰川からまっすぐ北へ気延山の山並みに沿って国府地区を国道192がつらぬく。

    国分寺の南東側の国道から国道北側を眺める           国分寺の南東側の国道から国道南側を眺める
この一体からは100を超える竪穴住居が出土し、その中には竪穴住居内に鍛冶炉がある鍛冶工房跡が幾つか見つかっている。 その中に砂鉄を出土した鍛冶工房がある。また、この鍛冶工房跡から北へ約200mほど行った国府町矢野の信号周辺からは矢野銅鐸が出土している。また、この道に沿う気延山連山の南端山裾には阿波国分寺 北端山裾には国分尼寺・国府跡があり、古代の王城の地。道路中央に立って 埋蔵文化財センターや考古資料館でもらった資料やコピーしてきた手持ち資料とまっすぐ北へ伸びる何もない未使用空間を見比べ そこに建つ弥生の大竪穴住居群の家並みをイメージしながら往時を思い浮かべました。
砂鉄はここの工房でどんな役割を演じたのであろうか・・・
埋蔵文化財センターでいただいた資料 栗林誠治執筆「徳島における導入期鉄器の様相」や村上恭通著「古代国家成立過程と鉄器生産」から矢野遺跡から出土した鍛冶工房遺構を整理して下に転記しました
 
 矢野遺跡の鍛冶工房 】
 ■ 砂鉄入り壷が出土した鍛冶工房 SB 2044  古墳時代初頭(庄内併行期)の鍛冶工房  矢野遺跡 U群
隅丸長方形の竪穴鍛冶遺構
遺構のほぼ中央から3段に掘削されたTaタイプの鍛冶炉が出土。

遺構内からは棒状切片や三角切片のほか砂鉄の入った壷が出土した
 

 出土した壷入り砂鉄
砂鉄を出土した古墳時代初頭(庄内併行期)の鍛冶工房  SB2044  矢野遺跡 U群
 ■ 鍛冶工房 SB 2037  弥生中期末   矢野遺跡 U群
 
  砂鉄が出土した鍛冶工房の直ぐ横から出土 Taタイプの鍛冶炉が出土している
 ■ 3回立て替えられていた円形の鍛冶工房  SB1035   弥生中期末  矢野遺跡T群
    
   矢野遺跡T群から出土した3回立て替えられていた弥生中期末の鍛冶炉遺構 SB1035
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砂鉄が出土したSB2044 鍛冶工房のある矢野遺跡U群の北側に隣接する矢野遺跡T群(同じ国道192号線の下)から出土した鍛冶工房遺構。時期は中期末で3回の建て替えが確認された。最初の住居は径6.0m 深度54cm。

一回目住居廃絶後に南側2/3に重なって下端径5.8mの円形住居が構築されている。

6本柱構造で中央部から2つの鍛冶炉が検出された。北側鍛冶炉は長軸185cm 短軸60cm 深度10cmを測る長楕円形。中央部底面50X40cmが被熱により赤変している。また、南側からほぼ同規模の炭化物を充填した鍛冶炉が検出された。
炉東端部に位置するピット壁面と底面が被熱により赤変している。両炉共に下部構造は共通していて、床面から35cm程度掘削後に炭化物と地山土を交互に充填している。こうした炉の形態からT類鍛冶炉と推定されている。
周辺および柱穴から鍛冶滓・三角鉄片・鍛造剥片が出土。
3回目の住居はやや拡大し6.8X6.6mの規模で、2回目住居跡地に10cm程度の盛土を充填し構築。中央部に長軸185cm 短軸135cm 深度30cmの長楕円形鍛冶炉が敷設されている。鍛冶炉の下部構造は粘質土と炭化物層を互層に充填されている。炉壁面に沿って20cm内外の結晶片岩の割石が検出された。割り石は被熱による赤変が観察され、操業時には配されていた。
炉内から鍛冶滓や鉄片が、貼り床部より鍛造剥片が検出されたほか、床面からは赤変した砥石・40cm大の円盤状結晶片岩の割石〔片面に赤色顔料が付着〕が出土。住居西側床面より、長さ14cm幅5cm厚さ2cm 重量500gを測る鉄素材が出土した。
( 鍛冶工房であるとともに朱の生産工房にかかわった工房であったのかもしれぬ )
矢野遺跡の鍛冶工房が働いた弥生中期末〜古墳時代初期にかけての矢野遺跡の鍛冶工房では鍛冶の主体は金切加工による鏃・工具加工が主で、鉄素材の高温鍛造が行われていなかったようだ。
鉄素材の高温鍛造など高温鍛冶に付随して「砂鉄」が使われたのではないかと思っていたのですが、ここではその可能性は少ないようだ。
ただし、砂鉄が出土した矢野U群の鍛冶工房SB2044より古いと推察される矢野T群のSB1035鍛冶工房からは鍛造滓・鍛造剥片が出土しているし、この矢野遺跡から北東へ数キロ離れた現在徳島大蔵本キャンパスになっている「弥生後期末から庄内併用期時代の庄・蔵本遺跡(Y期)の3軒の竪穴住居からは 鉄滓・粒状滓が出土し、多数の鍛造剥片や棒状切片・三角切片・不定形切片などが10件の竪穴住居から出土し、この遺跡では高温鍛造などの高温鍛冶が行われていた」ようだ。
ちょうど砂鉄が矢野遺跡の鍛冶工房SB2044に持ち込まれた時期と重なっており、
高温鍛冶が始まる時期に砂鉄が現れることから、高温鍛冶の新しい鍛冶技術として砂鉄が持ち込まれたことも否定できない。
このほか この鮎喰川の扇状地周辺には 弥生中期末の名東遺跡(W期)・高川原遺跡(W期)・鮎喰遺跡(Y期)など鍛冶工房が出土した遺跡があるが、この地域に砂鉄が持ち込まれた例は矢野遺跡の鍛冶工房SB2044以外に見つかっていないようだ。でも こんなに沢山の鍛冶工房が存在する阿波。 その勢力は本当に大きかったものと思われる。
やっぱり 一口縄では行かぬ砂鉄の謎。 ゆっくり家に帰って資料を見直そうと思
鮎喰川流域の弥生時中期末から古墳時代初頭にかけての鍛冶工房分布
考古資料館周辺の国道192  矢野遺跡T群の周辺
【参考】徳島 導入期の鉄器 

弥生中期後半 北部九州方面からの鉄素材の供給を受け、ほぼ北部九州度同時期に鉄器生産が阿波で始まる。
阿波は日本の鉄器生産の先進地とみられ、吉野川下流域の鮎喰川の扇状地は矢野遺跡・名東遺跡などの集落がその中心であった。また、国府の中心地矢野を南北に貫いた国道192号線は 国府の交差点で東に90度折れ曲がり、東へまっすぐ徳島の市街地へ向かいます。 鮎喰川の上鮎喰橋を渡った鮎喰川東岸 眉山の山裾にも鍛冶工房が出土。
橋の直ぐ南側の鮎喰遺跡。そして 市街地にかかったところには南庄遺跡。また、蔵本駅の周辺南には徳島大学医学部蔵本キャンバスは古墳時代前期 矢野遺跡で砂鉄が出土した時代の鞴羽口が出土し、高温鍛冶が行われていたと見られる鍛冶工房遺跡である。今回はいずれも 国道192号線を車で走りながら 場所を確認するだけでしたが、今後 また訪ねてみたいと思っています。

徳島導入期の鉄器の様相  栗林誠治執筆「徳島における導入期鉄器の様相」より 
 
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1003awa03c.htm   2010.3.15.  by Mutsu Nakanishi