中居遺跡の集落の位置をまとめるとこんな風になるのでしょうか???。
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南北に流れ下る新井田川が右へカーブする手前の左岸に低湿地が広がり、その上の台地に作られた中居遺跡。
この台地から川まで、現在建物の建つ中央部の少し西奥から川までの緩やかな傾斜地に泥炭層が広がり、
かつてこの場所は川が右へカーブする地点で絶えず水と接する地点である。
新井田川が作った湿地であることがうかがえる。
現在は新井田川の左岸の緩やかな傾斜地であるが、中居遺跡の集落があった縄文時代にはもっと起伏があり、
この台地の南端には小さな沢が湿地へと続く。また、北側にも川が流れ遺跡の北側を区切る。
そして 現在縄文学習館や歴史資料館が建つ中央部がこの遺跡の居住区で、墓域と竪穴住居が集落を構成して、
縄文後期・晩期から弥生 そして古代から江戸期へとこの中央部の中でその居住区を変えながら集落が続いてゆく。
漆遺物や土器・土偶と数多くの遺物を出土した縄文晩期の集落は現在の縄文学習館が建つ場所から北に居住区があり、
その前や南側に墓域があり、弧状の墓域は弥生時代にはさらに南
へ伸び、ちょうど湿地を弧状に取り囲むように集落がなっている。南端の沢と北の川が集落のゴミ捨て場になっていて、
漆遺物や土器・土偶など大量の遺物が出土したのが、南の沢である。
また最近北の川のところからも多数の遺物が見つかっている。
この中居遺跡が対岸の丘の上にある中期の環状大集落風張遺跡との関係も大いに興味がわく。
二つの集落のつながりはどうなのだろうか・・・・
縄文中期の大集落がほぼ終わる頃に直ぐ対岸の新井田川の川岸の湿地の上の台地でこの中居遺跡が大きくなり、
縄文文化の華といわれる縄文漆遺物など数々の遺物を残す。
また、縄文人の住む高台の森から 弥生人は水辺近くへと住処を変えてゆく。
丘陵地の高台に居る風張遺跡の人たちが 水辺へ移っていったのだろうか・・・・
風張遺跡では 竪穴住居の中から、一粒ではあるが、炭化米が見つかっている。
縄文後期 風張の縄文人は もう米の情報を持っていたのか?
また、縄文の典型的な環状集落から縄文晩期を経て弥生の集落への変遷過程も気になる。
この縄文晩期の是川中居遺跡では まだ、環状集落が維持されているのだろうか・・・・
弥生の村への変遷が見られるかもしれない。
今後も 新しい発掘・発見に期待したい。
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●縄文の漆 縄文晩期 北東北に花咲いた亀ヶ岡文化を代表する是川・亀ヶ岡遺跡の漆遺物
縄文晩期 北東北に花咲いた亀ヶ岡文化を代表する是川・亀ヶ岡遺跡の漆遺物
( 右写真の上段は是川遺跡出土遺物のレプリカ) 「縄文の漆」より