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鍛冶神大己貴命の伝説の地「神出」渡来鍛冶技能集団の進出地の伝承も
その東西に秀麗な姿を見せる神奈備山 雌岡山・雄岡山Walk 1104kande10.htm
神出南から眺めた雌岡山と雄岡山 2011.3.11. また、神出では平安時代「罐子(かんす)」と云う茶釜を作っていた鍛冶の郷だったという。この地域一帯は、平安時代から鎌倉時代にかけて、須恵器生産が盛んに行われていました。現在約100基余りの窯跡の存在が確認されており、「神出窯跡群」と呼ばれている。
「神出窯跡群」で製作された須恵器は各地に送られ、東北から九州にまで分布しているという。
1-2 雌岡山 山中 縁結びの神様 裸石神社と姫石神社 景行天皇の頃、九州の熊襲を討伐しょうと、大和を出発した日本武尊がこのあたりに来た時、雌岡山に立ち寄った。
山上で勝利を祈り、「スサノオノ神よ。無事に熊襲を討ち取ることができるなら、この石を羽根のように軽く飛ばせて下さい」と、一つの石を蹴った。すると、大きな石が羽根のように高々と舞い上がり、落ちてくるときはガラガラッと雷鳴のような響きをあげた。
そこで人々は、それを雷鳴石と呼んでいたが、いつしかライ石(裸石)と呼ぶようになった。
これが、裸石(らいせき)神社の始まりである。
裸石・姫石神社は雌岡山の中腹にあり、いずれも雌岡山の奇岩(磐座)が御神体で、赤石伝説や神出伝説とも結びついて この神出の縁結びの神様として 今も親しまれている。
その昔、雄岡山と雌岡山は、遠くから眺めると子牛の角のように見えたことから、男牛(おご)、女牛(めご)と言われていた。
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それが、雄子尾、雌子尾となり、やがて雄岡(おっこ)と雌岡(めっこ)になったといわれる。
神話によると雄岡と雌岡は夫婦の神で、男神の雄岡が小豆島の美人神に惚れて、妻が止めるのもきかず鹿に乗り会いに行った。
その途中、淡路の漁師に弓を撃たれ、男神と鹿は共に海に沈んでしまった。 すると、鹿はたちまち赤い石になり、ここから「赤石」→「明石」となり明石の名称の起こりとも言われている。
昔は、雌岡山の神出神社から小豆島が見わたせたといわれる。 1-4. 雄岡山・雌岡山の高さ比べと金棒池の伝承
その昔、雄岡山と雌岡山が、金棒を芯にして土を盛って高さ比べをしていたところ 雄岡山の金棒が折れて、二つの山の間にささり、その跡が金棒池になった。そのため、雄岡山(標高241m)の方が雌岡山(標高249m)より8m低くなった。
1-5.弁慶と金棒池
雄岡山と雌岡山を庭の築山にしようと考えた弁慶は、二つの山の間に立ち、持っていた金棒の両端を雄岡山と雌岡山に突き刺して持ち上げようとした。金棒は、弁慶の肩の上でしなり、ついに折れてしまった。この時、金棒の落ちた跡に水がたまったのが金棒池である。池の中には小さな二つの古墳があるが、これは弁慶の足跡だといわれている。2.古代では日太最大の巨大窯 神出古窯跡群 この辺り一帯は、神出古窯址群と呼ばれ、平安時代末〜鎌倉時代の須恵器や瓦の一大生産地。長さ13m、幅3mの大きな窯もみつかり、大窯の規模は、古代の須恵器窯としては、日本最大級。 また、神出古窯址群中、最古の窯も発見され、同古窯址群のルーツをたどる大きな手がかりとなっている。 備前焼・丹波焼などの中世六古窯とともに、我が国の中世窯業を代表する生産地の一つで、須恵器(すえき)と呼ばれる土器、そして瓦が生産された。
「東播系中世須恵器」とも呼ばれる須恵器の鉢は鎌倉時代にかけて大量に生産され、関東から九州に至る広い範囲に流通し、各地で料理に使われた。
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1104kande10.htm 2011.4.5. by Mutsu Nakanishi