home page top 新着monthly page top 2010四季折々・from Kobe 2010たたら探訪 2010風来坊 風来坊 全file DOCK 全ファイル収蔵DOCK
.
 
西播磨 歴史の町に春を訪ねる  
西播磨綾部山梅林と江戸の町並みが残る坂越港

          参考2.  西播磨 坂越と秦氏が浮かび上がらせた古代西播磨の鉱物資源
                      ふとした疑問 西播磨の鉱物資源が古代播磨の勢力の源泉かもしれない・・


西播磨の海岸沿いの山から見る瀬戸内海  左: 綾部山より播磨灘に浮かぶ家島 右: 坂越湾の生島
瀬戸内海東西の海路と 島伝いに南北 播磨と四国を結ぶ海路の十字路「西播磨」

3世紀 播磨と大和王権とのつながりを示す綾部山39号墳など数多くの古墳がある綾部山古墳群  
梅満開の綾部山より播磨平野遠望  左: 北東側 竜野から姫路 右:南東側 播磨灘


赤穂市坂越湾は 古代 物づくり渡来氏族 秦氏の播磨進出地である天然の良港
背後の山からは「金」が出るという 坂越の港を取り囲む山 
古代西播磨の勢力の源泉は鉱物資源 ここにも 古代のIron Road の痕跡があるのだろうか
 
古代 大和王権の成立に連合国として大きな働きをしたという播磨国。
また 境を接する吉備よりも瀬戸内海をはさむ阿波・讃岐とも密接な関係を築いていたという。播磨が主要連合国となりえた源泉は何なんだろうか?。
  播磨が瀬戸内海交通路の要衝の地であり、この播磨から吉備にかけての海岸沿いでの塩生産が重要な特産品であったが、それだけで、西播磨が大和王権の連合国に加われる勢力になりうるだろうか・・・・・
 
   播磨の中心を流れ下る揖保川の河口域に位置し、大和王権の成立期 3世紀後半大和と阿波・播磨の結びつきを示す綾部山39号墳がある綾部山古墳群やそのすぐ北「卑弥呼の鏡」と呼ばれる「三角縁神獣鏡」が出土した権現山51号分などが見つかる権現山古墳群など古代播磨の中心地竜野市旧御津町の海岸部。
そして この海岸部と狭い奥へ入り組んだ相生湾を隔てて西側にある千種川 の河口の静かな港町「坂越」が古代の渡来氏族「秦氏」の有力な進出地のひとつで、聖徳太子に重用された秦河勝の墓がこの地にあり(伝承地)しかもこの地周辺の山から金鉱山が発見されたという
坂越の港の背後を「コ」の字に取り囲む山々の端のところに最近まで操業していた「金」の「大泊鉱山」跡があり、また、この坂越から北への山中には上郡町の旭日金山など鉱物資源帯である。
また、綾部山の北には金湧山の地名が残っている。この周辺に古くから鉱山資源があった可能性がある。
大泊鉱山は昭和に発見され、操業は10年ほどで 古代とは直接の結びつきはないですが・・・・

秦氏といえば 渡来の「ものづくり」氏族として 各地に進出し殖産開拓に大きな功績があった氏族
古代西播磨にある「金・(鉄)」等の鉱物資源開発が塩と並ぶ重要特産品として西播磨に大和と結ぶ有力豪族が生まれ基となったのか?
古代 物づくりの渡来氏族の秦氏が西播磨にも拠点を持ったのも、確心はないが、この地域で産する鉱物資源開発が目的だったかも?
西播磨の海岸線に数多く残る古墳時代の遺跡はこの地の鉱物資源とかかわっていた鉄の道の痕跡かも知れぬ」との思いがふっと頭に浮かぶ古代大和王権の成立期に播磨の国が有力な連合国のひとつとなったのはなぜか? 
しかも吉備に近い西播磨の海岸沿いの海岸がその中心に成りえたのか? もっと立地条件のよい場所が数多くあるのに・・・・。 
不思議である。坂越の港を取り囲む山 その南西側先端部に金鉱山があったという

● 日本書紀に書かれた秦氏 物づくりの渡来氏族の記事
百済または新羅から来といわれ6世紀頃に活躍した有力渡来氏族。 
当初その根拠地は葛城にあり、その後京都太秦に進出し、広隆寺を興し、淀川・桂川・鴨川改修をはじめ、兵庫川西多田金山開発・酒や能楽・機織の祖等々地方各地に広がり各地の殖産開拓を成し遂げた渡来氏族。京都 松尾寺や大酒(避)神社をその氏神とする。
もっとも有名な人物が聖徳太子に使えた秦河勝で広隆寺を興し、平安京造営の基を造ったとも言われる。
また、九州 豊前国 宇佐八幡宮もまた秦氏と関係深い神社である。                 
『日本書紀』に記述された秦氏の祖といわれる弓月君の朝鮮半島からの渡来。 
日本書紀に次のような記述は次のような記述がある。
応神天皇十四年弓月君が百済から来て、
「私の国の百二十県の人民が帰化を求めています。しかし新羅人が拒んでいるので、みな加羅国に留まっています。」
と天皇に奏上した。
天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わして、加羅国の弓月の民を召されたが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった。
応神天皇十六年、天皇は平群木菟宿禰と的戸田宿禰に精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じ、加羅に遣わした。
木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に帰ってきた
この葛城襲津彦が連れ帰った渡来人の中に韓鍛冶が数多く含まれていて、葛城で鍛冶工房を興したといわれている。
参照 和鉄の道 金剛・葛城 山麓 葛城氏の鍛冶工房「忍海」渡来人が住み鉄鍛冶の技術を伝えた古代「忍海」
    https://www.infokkkna.com/ironroad/dock/iron/5iron05.pdf
九州北部 豊前には「秦王国」があったといわれる秦氏のもうひとつの根拠地で 宇佐八幡神社の八幡神を一番最初に祀った辛嶋氏は「秦氏」といわれ、鍛冶神の伝承が残る。そして、この豊前英彦山の山麓は古代からの銅山であり、近畿の多田銅山(金山)にも秦氏の足跡が色濃く残る。また 炭焼長者の伝承の地でもある。
秦氏というと養蚕・機織や酒醸造技術と広隆寺造営と能楽の祖という側面しか知りませんでしたが、銅・鉄など金属の鍛冶技術にも深くかかわっていた。
古代 鉱山開発は国の大きな力。奥播磨は古代から有数の「鉄」の産地である。
そこから流れ下る千種・揖保川の河口にこの地の有力豪族がその中心地を形成しているとの味方もできるが・・・・。
あまり意識していなかったのですが、この西播磨の海岸部に大きな勢力を持った豪族も 阿波・徳島でも見えてきたごとく、その勢力の源に鉱物資源開発があったのか・・・・と。
ふっとそんなことを考えて「秦氏」の足跡がある赤穂市坂越 そしてまた 阿波・讃岐との連合を色濃く残す卑弥呼の時代の竜野市御津にある綾部山39号墳もしっかり見たいと出かけました

先頭に戻る



 
 
home page top 新着monthly page top 2010四季折々・from Kobe 2010たたら探訪 2010風来坊 風来坊 全file DOCK 全ファイル収蔵DOCK
.
1004wharimare02.htm   2010.4.5.  by Mutsu Nakanishir