4. 阿波 鍛冶工房から砂鉄が出土した弥生の大集落「矢野遺跡」を訪ねる
4.1.板野古墳群の山麓にある徳島県埋蔵文化財センターへ
4.2.鮎喰川の扇状地に開けた阿波王城の地 弥生の大集落 矢野遺跡のある国府地区へ
4.3.「村から国へ」弥生の大集落 矢野遺跡のある国府walk
4.4. 阿波 弥生の鍛冶工房 矢野遺跡を訪ねる まとめ
鍛冶工房で出土した砂鉄の使い道は????
4.1.板野古墳群の山麓にある徳島県埋蔵文化財センターへ
1003awa01.htm
. まず 矢野遺跡・阿波国のアウトラインを頭に入れる
Google
earth より 吉野川下流域 3D 地図と吉野川か流域遺跡分布図
徳島walk
map 吉野川・徳島平野を望む板野町の山裾にある徳島県埋蔵文化財センター
神戸から約1時間ちょっとで淡路島から鳴門大橋を渡ると四国徳島県にはいる。徳島へは鳴門ICで降りて南へ行けばいいのですが、通り越して 矢野遺跡の資料ならびに予備知識をもらいたくて、次の板野ICのすぐ西にある徳島県埋蔵文化財センターへ向かう。
高速道路は阿讃山脈の東端の山並みの南側山腹を西に向かう。鳴門の市街地や徳島の平野部の向こうに徳島のシンボル眉山が時折みえる。
鳴門ICを過ぎてすぐ 道路に立ちはだかる大きな前方後円墳(大代古墳)の下を眼鏡状にくりぬいたトンネルで抜ける。
この高速道路が走る阿讃山脈の山裾 鳴門から板野にかけては 吉野川北岸の王城の地 鳴門板野古墳群が点々と続くところで、古墳の多い古代阿波国域へ入ったと実感する。
鳴門西PAに車を止めるとそこに先ほど潜り抜けた大代古墳の案内板がありました。
また、この鳴門西PAからは吉野川河口に広がる広大な徳島平野が見渡せました。
4世紀末の築造と考えられる全長約54mの県内最大級の前方後円墳
後円部中央の竪穴式石室からは「刳抜式船形石棺」と勾玉・管玉など多くの副葬品が見つかっている
Google earth より 吉野川下流域 3D 地図と吉野川か流域遺跡分布図
鳴門西PAから眺める徳島平野 2010.2.6.中央をゆったりと吉野川が流れ 平野の向こうに眉山の山並みが見える
こちら側の山裾と向こう側の山裾には 弥生の中期から古墳時代にかけて大きな集落が数多くあり、阿波の豪族の王城の地として、多くの古墳が築かれたという。また、向こうに見える眉山の山並みの麓から西へ山裾に広がるのがこれから行く国府地区。矢野遺跡など阿波の国の中心部である。今は この徳島平野を家並みが多い尽くしているが、かつてはこのあたりまで海が入り込んでいて、大きく東に開ける海原が見えたに違いない。そして、北部九州と大和を結ぶ交易路の東四国の玄関口として、多くの人たちが集まってきたという。
鳴門西PAを出発するとすぐに板野ICで、ここを出て一般道を埋蔵文化財センターに向かう。カーナビ任せの気楽なドライブである。
この高松自動車道はここから大きく北へ曲がって山を越えて四国の海岸沿いに出て高松へ向かう。一方この板野ICから南約3Kmのところに徳島から吉野川沿いに中央構造線の中をまっすぐ東西に松山まで貫く徳島自動車道(四国縦断道)の藍住ICがあり、高知や松山へ向かう車はこの板野ICから藍住ICに乗り継ぐ。
地形図をみれば、ここが東西に直線で走り抜けられる直線道路であることがよくわかる。四国の北岸を走り抜ける中央構造線の北の壁への東の入り口である。また、余談ですが、徳島の人は高松自動車道をそう呼ばず、まだ未完成ですが、小松島・徳島から高松を経て高知への全線開通を期待して 四国横断自動車道と呼び続けているそうである。
高松自動車道 板野IC周辺
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板野ICの南側 旧吉野川の端を渡って北に戻る
JR板野駅の集白が見えている
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板野ICを出て 高架の専用道路をまっすぐ南へ一般道路に出て、旧吉野川を渡ったところで西へ曲がって 再度橋を渡って北に戻る。
JR板野駅前の十字路を埋蔵文化財センター・歴史文化公園の案内板に従って西北の山の尾根筋へ回り込みながら登ったところに立派な埋蔵文化財センターの建物がありました。
正面には矢野遺跡から出土した大きな矢野銅鐸と西長嶺遺跡から出土した顔が描かれた分銅形土製品が阿波国を代表するモニュメントとして出迎えてくれる。またすぐ脇 左手の小高い丘が阿波を代表する古墳のひとつ西山谷2号墳で、この埋蔵文化財センターが立つ丘を含め、東西に並ぶ亜讃山脈の山裾で鳴門板野古墳群の一角である。
ちょうど10時。西山谷古墳の見学を後回しにして、まず埋文センターに行く。
大きな矢野銅鐸と人の顔が描かれた分銅型土製品のモニュメントが出迎えてくれる徳島県埋蔵文化財センター
埋蔵文化財総合センターはそれぞれの県にある埋蔵文化財の調査・研究・整理・保存するとともに、一般にも出土品や資料を公開している。歴史・遺跡のことは埋蔵文化センターへ行けば大抵のことは教えてもらえる。
入口を入ると「どうぞ どうぞ 神戸からですか」とにこやかな受付の女性が気持ちいい。
「矢野遺跡の位置特に鍛冶工房跡から出た砂鉄の資料をほしいのですが・・・」と目的を伝えると「砂鉄のことはよく知らないが、矢野遺跡の関係は展示があるのでどうぞ。学芸員の人をお呼びしましょうか」と丁寧に言ってくれる。
それをお断りしてちょうど開催されていた四国4県の埋文センター共同の巡回展「続・発掘へんろ 旧石器時代〜縄文時代の石器や土器 」と常設展を見る。
展示を見終わって出てくると思いもかけず、この埋文センターの植地主任さんが矢野遺跡への地図持って待ってくださっていた。
「矢野遺跡から出土した砂鉄はこの埋文センターに保管されているのですが、常設展示はしていないのですよ。
ちょっと待っていてください。お渡しできる矢野遺跡の鍛冶工房についての資料ちょっと探してきます。」と部屋に戻られ、
資料「栗林誠治執筆 5.徳島における導入期鉄器の様相」の資料をコピーしていただいた。
本当にうれしい出会いでした。
展示の内容を含めた阿波国ならびに矢野遺跡の概要については
埋文センターの展示やいただいた資料ならびに手持ちの資料などを整理して
その概要を下記資料にまとめ転記しましたのでそちらをご覧ください
何も知らずに、「弥生の鍛冶工房 矢野遺跡といっても、何もないのでは・・・・」と思って この阿波へやってきましたが、
矢野遺跡が阿波の中心的遺跡で鍛冶工房だけでなく色々な側面を持ち、「やっぱり 鉄だ」と。
吉野川を挟んで南側矢野遺跡のある国府地区へ行くのが楽しみになってきました。
1時間ちょっと埋文センターを出て、すぐ前の丘西山谷2号墳の見学へ
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● 3世紀中葉 竪穴式石室の出現を示す重要な阿波の王者の墓 西山谷2号墳
埋文センターすぐ横の尾根筋にある西山谷2号墳
〔 拡大解説 〕
丘を登ると円墳の頂上部の土が取り除かれて、竪穴石室の中が見える状態で展示。
薄青色の石が四角く積み重ねられた石室がオープンになっていました。
横穴式が出てくる前の初期の竪穴式の石室。そして その中に「朱」が敷き詰められた刳抜式木棺が納められ、中国製青銅鏡・鉄剣・鉄族・鉄や土器などかの副葬品が出土したという。
私は古墳にはほとんど知識がないのですが、3世紀中葉 徳島を代表する国内最古段階の竪穴式石室を持つ円墳で徳島特産の結晶片岩という薄青の石を積み重ねて墓壙を四角く取り囲んで覆うように石室が作られ、古墳時代の大和の古墳築造にも取り込まれた阿波の技術で、また 竪穴石室を取り囲む薄青の結晶片岩も阿波の特産 阿波の王者の石 阿波の王墓場仮でなく、大和の王墓にも使われたと教えてもらいました。
鳴門板野古墳群 3世紀中葉の円墳 西山谷2号墳
徳島特産 薄青の平板な結晶片岩を積み重ねて造られた日本最古級の竪穴式石室これから何度となく見る平べったい青い石 徳島原産の「阿波の青石 結晶片岩」。
「この青い石の積み重ねられた古墳 どこかで見たぞ」と。
ちょうど紀淡海峡をはさんで東にある紀ノ川か流域にある700基を越える岩橋千塚古墳群が直ぐ頭に浮かんできました。
石室の材料は阿波ではなく紀ノ川から出る結晶片岩で、大多数がもっと後の時代の横穴式石室なのですが、この青い石が幾重にも積み重ねて石室が作られていました。
また 大和の古墳でもこのような薄い平板石である結晶片岩を積み重ねた構造を見たように思う。
木棺に敷き詰められた朱 副葬品ならびに青色の結晶片岩を用いた緻密な築造などこの古墳が阿波を収めた豪族の権威を物語り、この技術また聖なる石 石室材料として 結晶片岩が大和へ引き継がれて行ったのだろう。
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阿波国の情報をたっぷり頭に叩き込んで、矢野遺跡のある国府地区へ
地図を開くと ここから まっすぐ南へ 吉野川を渡って行けば 国府地区へ到達する。
国府町矢野の地域全体が矢野遺跡で看板も何もないと聞きましたが、その中心地に徳島市立考古資料館があるので、
そこへ行けば また 新しい情報が入れられる。
カーナビに入れると一発に道順教えてくれる。 便利な時代で 国府地区へ向かう。