再度登りなおして、Y字のところから、左へ別荘が建ち並ぶ南の丘に
入ってゆく。今は別荘が建ち並ぶこの南側の丘一帯が、弥生の高地性集落「熊野本遺跡」である。
Y字のところから南へ南の丘の東端に沿って100mほど入るとちょうどこの丘の南の端で、この南の丘の南東側の縁は崖になっていて、
その中に今は住宅が建ち並ぶ別荘地が造成されていた。
この南の丘の南東の隅一角が家が建てられず、草地に整備され、今は草ぼうぼうのところがあり、その端「熊野本遺跡」の案内板が立ち、方形の墳丘があったった場所である。
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弥生の高地性集落 熊野本遺跡 2008.9.1.
この雑草地の手前側に方形墳墓
奥に大型建物など竪穴住宅がひろがっていたという
案内の立て札には次のように記されている。
熊野本遺跡
熊野本遺跡は弥生の高地性集落と呼ばれる弥生の中期から後期の遺跡
宅造道路のついている東西300m南北200mの範囲に
広がる大規模な集落で滋賀県で最大規模の高地性集落といえる。
発掘調査で多数の竪穴住居や墳丘墓がみつかり、
また 多数の弥生土器・石器・鉄器も出土している。
遺構や出土物はほかの地域 特に日本海地域とのつながりが
強くうかがえることから、交通 の拠点に営まれた集落と考える
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また、滋賀県文化財学習シート「熊野本遺跡」には さらに次のように書かれている。
熊野本遺跡は、弥生時代中期(約2100年前)〜後期(約1900年前)の高地性集落。
これまでに直径12mの大型の竪穴建物を含む竪穴建物が約40棟見つかっています。
また、鉄製品や鉄素材が多数出土していることから、鉄製品を加工・製作していた可能性が指摘されている。遺跡の南西からは、
東西12m・南北15mの弥生時代後期末の墳丘墓が見つかり、木棺跡からは水銀朱とガラス小玉741点が出土。
日本海沿岸地域と近畿・東海を結ぶ位置にあり、遺跡の時代は、日本列島内に鉄器文化が急速に普及する時期と重なることから、
熊野本遺跡は、交通路や鉄の掌握を通じて大きな勢力を持った湖西地域の拠点集落であったと考えられる。
集落の廃絶後に、集落跡に墳丘墓が築造され、さらにこれに継続して古墳時代前期〜中期にかけて首長墓群(熊野本古墳群)が営まれる。この中には発生期の前方後方墳である熊野本6号墳も含まれており、引き続き、この丘陵を含む地域が重視されていたことがわかる。
この東南の端は崖になっていて、そこからは 眼下に広がる新旭の家並み・高島平野琵琶湖が見渡すことができた。
この南の丘も やはり、集落があった時代 広く高島平野を見渡すことができたのだろう。
遺跡東南の端は崖になっていて、そこからは 眼下に広がる新旭の家並み・高島平野琵琶湖が見渡せる
出土した「鉄」は 板状鉄素材や鉄族など30点以上。鉄素材は長さ29cm
幅約3cm厚さ約3mmのもの9点で、
加エした跡のあるものもあり、この地で大陸から来た鉄素材を使っての鉄器の加工・製作が行われていた可能性があると
教えてもらったが、鉄素材・鉄族の実物を見ていないので、実用品がつくられていたがどうか・・・は何ともいえず。
でも、大陸から日本海沿岸を通って若狭の港に揚げられた鉄が すぐ近くのこの場所で鉄器に加工。
この鉄器の流れが、大和への鉄の道の始まりと考えると楽しくなる。
大和が興る前のほんとうに早い時代から 大陸・朝鮮半島から日本海沿岸・若狭を通って日本の中央 畿内へ入る鉄の道があり、
それが北九州と対抗できる大和連合勢力を作りあけたのかもしれない。
若狭・北近江というとすぐに古代 渡来人・継体天皇の系譜が持ち出されるが、そのもっと前からこの地は中央を支える重要な拠点だったのだろう。