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初期ヤマト王権を支えた物部氏の本拠地「布留遺跡」再訪Walk 2012.5.19. 
今まで 布留遺跡に抱いていたのイメージが随分 変わりました

2. 随分印象が変った私の「布留遺跡」のイメージ   
    大布留展 &関連講演会に参加して 鍛冶工房だけではない姿が見えてきました         
2.2.随分印象が変った私の「布留遺跡」観 大布留展 &関連講演会に参加して   1206furu02b.htm
近畿で鍛冶工房が出現してくるのは 弥生時代後期 丹後の奈具岡・大阪星が丘の鍛冶工房遺跡などで、その後 古墳時代になると 大和に初期ヤマト王権が成立してゆく過程で 小規模な鍛冶工房が畿内の各地に生まれ、次には 王権を支える豪族たちが朝鮮半島の渡来鍛冶集団をも取り込んで営む大規模な鍛冶工房群 < 布留・大県・忍海(脇田・南郷〕・森 >に集約される。
そして、ヤマト王権が国づくりを進める過程で、精錬鍛冶の先進技術も取り入れられ、大県の鍛冶工房群に集約されてゆく。
そんな近畿の鍛冶工房出現の歴史の中で2009年1月 淡路島で 弥生時代後期の国内最大級の鍛冶工房村五斗長垣内遺跡が見つかった。
ここでは23棟もの鍛冶工房関連建物や数多くの鍛冶炉遺構や家事遺物が見つかり、この遺跡がヤマト王権が成立してゆく過程でどんな役割を演じたのか 興味深々であるが、まだよく判っていない。
弥生時代の鍛冶技術は まだ、鉄素材を高温に加熱して、素材を鍛造成形する技術はなく、もっぱら 鉄素材を鏨切加工して鉄器を作る技術が主であった。
3世紀頃 北部九州では鉄素材を高温に加工する技術が伝来し、博多遺跡などでは鍛造加工して鉄器を作る高度な鉄器製造技術があった。  
大和の纏向遺跡では この北部九州の先進技術が伝わっているが、遺跡の出土鉄器を見る限り、製造された鉄器の主はまだ弥生の鏨加工が主で、一部鍛造加工されたものもあるという。畿内は鉄器の後進地といわれるのですが、五斗長垣内遺跡の出現そして纏向遺跡の先進鍛冶技術取込みがその後の大和政権に統一国家成立に大きな影響を与えて行ったであろう
   日本古代の製鉄遺跡の編年と系譜の関係            古墳時代の畿内・大和の鍛冶工房の変遷


前置きが長くなりましたが、「大和王権の軍事を担った物部氏の本拠地の鍛冶・鉄器工房が布留遺跡」と捉えて、どんな新しい技術が初期大和王権の鍛冶工房に入っているのか それを見たい。それが大和を国の中心にしていったのではないか?」と。
でも 今回 布留遺跡について「大布留展」を実際に見て、図録に書かれた遺構・遺物の出土状況 そして講演会聴講で聞いた話しを総合するとどうも、布留遺跡について 思い込みが強すぎたのかなぁ・・・・と。
布留遺跡では 鍛冶工房群と見られる竪穴住居群遺構や鉄滓・鞴羽口や砥石などが出土しているが、
残念ながら鍛冶炉や鍛冶工房の内部配置はよく判らず、意外すぎるほど膨らましていたイメージとのギャップが大きいと感じました。

また、鍛冶工房遺構から鉄の遺物が数多く出ることは少ないと承知はしているのですが、国の軍事を担った集団の中枢鍛冶工房遺跡。
そして 弥生から古墳時代の移り変わりに大きな役割を果たしたといわれる「鉄」。
当時 半島から多くの鍛冶集団が日本にわたってきたといわれ、韓式土器など布留の遺物からもそれが見て取れる。
その先進の鍛造鍛冶・そして製鉄へとつながる精錬鍛冶の遺構がひょっとして 見られるのではないか・・ と思っていましたが、

どうも違うようだ。
本各地に興った国々が争った弥生の終末期から古墳時代前期へ 
でも「この初期大和王権の時代は軍事といっても《戦闘》というより、《祭祀》とのつながりが強いのではないか???」
布留遺跡では そう思えるほど 祭祀遺構・遺物が数多く出土している。
また、祭祀にも関係すると思われる玉工房と鍛冶との結び月を示す大量の玉遺物が遺跡のあちこちから出土している
日本海沿岸諸国の鍛冶工房そして四国阿波の矢野遺跡など同じく、「玉作りの生産工房の工具作りの鍛冶工房」というのが、この布留の鍛冶工房の性格のように見える。確かに多数の刀剣装具類が出土しているが、これも鍛冶作業は威信材の装飾副次作業といえなくもない。
そう 考えると布留の前の時代 邪馬台国 祭祀をつかさどる卑弥呼の女王国にもつながるのですが・・。
どうでしょうか・・・・・
一方 軍事としての武器・武具を頭に置くと鉄族は別にして イメージ的には 厚い鉄素材を使った鍛造鍛冶が目に浮かぶ。
国土開拓の農工具もそうだろう。 
北部九州博多遺跡では いち早く自分たちの技術にした高温加熱加工・鍛造技術を使って、鉄板を重ねて厚手の丈夫な鉄器など 鍛造加工技術がどんどん進んでいったという。
布留遺跡の鍛冶工房の先進性を示すイメージがないのは 大型鉄素材やトピックス的な鉄器遺物が出ていないためか・・・
それとも そんなニーズは まだこの時代には必要なかったのかもしれない。
大布留展でも布留遺跡の鉄製品出土遺物をきっちり 見た記憶がなく、インターネットを当たったり記憶をたどったりしているのですが、よく判らない。
ひょっとして鉄鏃があったかもしれませんが、この時代大きな鉄製品が作れる工房は北部九州に限られ、小さな製品は腐食でなくなって出土しないのかもしれません。布留遺跡の鍛冶工房と玉作りとの関係が頭にあったので展示されていれば、その工具類を確かめたはずと。
 
6月に参加した橿考研での講演会で 布留遺跡の鉄製品として 小さな鏨加工品がいくつか スライドで映し出されているのを見ましたのでクリヤーではありませんが、布留の鍛冶工房はまだ 弥生時代の鍛冶が主体だと思われます。
ちょっと 鉄器万能論から少し後ろに下がった目でこの古墳時代の大和の鉄器工房群を見ないといけないのかもしれない。頭は色々揺れ動くのですが、まだ、布留遺跡の未調査部分も多く、布留の氾濫原の広がりを考えるとこれからまだ何が出てくるか 興味深々。
 
大和の古代をひっくり返す遺構・遺物がまだ数多くうまっているかも・・・・・・。
それにしても 天理教の諸施設や天理大学の広大な敷地がそっくりそのまま布留遺跡。
やっと布留遺跡の遺構イメージが今回の大布留展参加でわかってきました。 
布留遺跡と古墳時代の鍛冶工房のイメージにはまたひとつ不思議が増えましたが・・。
長いことの疑問が吹っ切れた天理参考館での大布留展参加でした。
今まで 布留の鍛冶遺跡はどこだろうかと思いつつも、確かめもせず、石上神宮や山之辺の道を歩いたものですが、
今回はしっかり これら布留遺跡の色々な遺構が埋まっている場所をじっくり歩いてこようと。

                          2012.5.19. 午後  大布留展・関連講演会に参加して 
                  ちょっと違う布留遺跡のイメージに面食らいながら
                                  Mutsu Nakanishi


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1206furu02b.htm   2012.7.1.   by Mutsu Nakanishi