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製鉄神「天目一筒神」を祭る「天一神社」を訪ねる
ひまわり畑のすぐ近く東徳久間村の里山
林崎ひまわり畑周辺から遠望した東徳久地区 左写真の右中央山の麓が天一神社のある東徳久間村周辺 2012.7.18.
インターネットを調べていて、千種川沿いに弥生時代創建と伝えられる「天一神社」のページを見つけました。ひまわり畑のある林崎と漆野の中間東徳久。位置がはっきりせず、地図で確認すると春カタクリをよく見に行く殿崎の山のようだと知れる。
古代の製鉄地帯の真っ只中である。下三河製鉄遺跡群が下野で途切れ、下流側に何かあるのではと思っていた時に見つけた「天一神社」である。
この神社の由来はどうもはっきりしないが、御神体の宝剣(銅剣)が天智記に「安置御宅」と記され、延喜式神名帳をはじめ多くの古書に登記されているなど相当古い神社。また銅剣(県指定重要文化財)は明治二十年頃西徳久の「ゴロウ」と呼ばれる所から発掘され、弥生時代に大陸から渡って来たもので圃場整備の時に数々の土器が発見されたという。(西徳久ごろう遺跡??)。
また 近くの縄文・弥生時代から奈良・平安と受け継がれてきた集落 東徳久遺跡からは.
分銅形土製品が出土しており、この千種川沿いの周辺地が早くから開けた土地であった。
千種川上流の「千種」の「種」そして「徳久」の「トクサ」いずれも製鉄関連地名といわれ、こじ付けになってしまうが、古代の製鉄地帯に古くから存在する神社 やっぱりたたら衆の神であったのでは・・・・・と。 なお この徳久地区から少し南の旧三日月町には『播磨風土記』にこの天一神社の宝剣にも関連すると取れる下記のような話も伝わっている。
林崎ひまわり畑から見る東徳久 天一神社 写真中央から左へ千種川が流れ下る 2012.7.18.
昔むかし天智天皇の時代に、今の三日月町末広のあたりを中心とする中川の里に丸部具(まるべのそなう)という人がおった。
この人がある所のある人が持っていた剣を買い取ったが、その後不幸が続いて家が亡んでしまった。それから何年もたって、またある人が丸部具の家の跡を畑にしようと掘り返していてこの剣を見つけた。
柄は腐ってしまっていたが、刃はピカピカに輝いてまるで鏡のようだったという。さっそく鍛冶屋(かじや)を呼んで剣をつくり変えようと焼かせたところ、剣は蛇のようにぐにゃぐにゃと伸び縮みし、鍛冶屋は驚いて帰ってしまった。
これは妖剣だと思い、朝廷に献上してしまった。
その後天武天皇の時代(684)になって、
この剣はまたこの中川の里に送り返されたという。
その後はどうなったかはわからない。何度も出かけたことがある地であるが、
天一神社にはいったことがありませんが、林崎ひまわり畑のすぐ北東側
千種川の横にある里山の上のようだ。是非 どんなところか 眺めにゆこう。
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西播磨 佐用町周辺の製鐵遺跡(赤印)分布 参考図
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千種川沿い県道53号 東徳久の橋の袂より 天一神社の案内標識
ひまわり畑の丘から北側千種川が流れ下る方向をながめると、ひまわり畑の後ろ田園地帯の奥 千種川に沿って東徳久の集落が広がり、その東岸にまで張り出した枝尾根が見え、その後ろに美しい形の山が見える。
この丘の上が天一神社の位置。
また この美しい山の麓何度も行った殿崎のカタクリ群生地がある。
どうも 最近の地図にはこの天一神社名が記載されておらず、
気がつかなかったが、このひまわり畑とは ほんの目と鼻の先である。
原付を川沿いに北へ走らすと次の橋周辺がもう東徳久で、
橋の袂に「天一神社参道」の標識。
今まで 何で気づかなかったのか・・・・と。
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橋からまっすぐ山の方に向かう田園の中の一本道を通り抜けると 丘の裾のところで左に分岐する東徳久営農組合の作業場前に出る。
ここにも左分岐への小さな天一神社の案内標識が立っていて、この丘を回り込むと左側に先に見た千種川の岸まで張り出している枝尾根が眺められ、丘との間に整備された畑が段々に並ぶなだらかな傾斜地が奥へとづいている。
この傾斜地の山際に人家がポツリポツリと眺められ、ここが東徳久 間村の集落。
の傾斜地を奥へと続く一本道の左手の枝尾根の一角に樹木がない草地の場所があり、そのそばに数軒家が見え、そこへの別れ道が見えるこの山腹の草地の一番上の部分に目を凝らすと木の小さな鳥居が見え、これが天一神社の鳥居でした。
千種川から延びる枝尾根の山際 間村の集落への分岐 間村の集落から登ってきた道を振り返ると
里山の中腹に天一神社の木の鳥居 随分下に林崎周辺が眺められた
振り返ると随分下に林崎のひまわり畑や千種川が見え、意識していませんでしたが、随分登ってきたようだ。
この位置が千種川の川筋が見晴らせる絶好の位置にあることがわかる。また、千種川側からは美しい形をした山がランドマークになる。
この分岐のところにも天一神社参道の案内標識がありましたが、夏の暑い日差しに全く人影が見えず。
鳥居は見えるのですが、神社の社殿などは全く見えず。背後の森の中に隠れている。
間村の集落の里山の森の中にある天一神社 目を凝らすと鳥居が見える 2012.7.18.
天一神社へと続く参道 参道は猪の囲いとネットで完全に封鎖されていました 2012.7.18.
猪囲いがあって、道が閉じられている。勝手に外して行くのもいやで 今回は奥へは行けず。
参道は猪の囲いで封鎖されていて たずねる集落の人にも出会えずで、奥の様子も全く予備知識がなしで来ましたので、
今回はここで引き返し、出直すことにしました。次回 佐用に行ったときには是非 この山の中に入れてもらおう。
なお 帰ってインターネットを見るとこの猪囲いを外して鳥居をくぐってゆくと森の中に鞘屋の中に納まった本殿など
社殿や境内の様子を示した写真がありました。
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【参考1】 |
和鉄の道 2003
播磨国風土記和鉄の道【1】 |
古代製鉄の一大生産地「讃容の里」Walk 西播磨 佐用町 大撫山製鉄遺跡を訪ねて
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【参考2】 |
西播磨主要製鉄遺跡分布図 |
1.西播磨 佐用・千種 主要製鉄遺跡分布図西播磨
2.佐用町周辺の製鐵遺跡(赤印)分布 参考図 |
西播磨 佐用・千種 主要製鉄遺跡分布図西播磨 |
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佐用町周辺の製鐵遺跡(赤印)分布 参考図 |
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