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「初期大和王権の成立に大きな役割を演じた西播磨」
   西播磨 古墳時代後期末の鍛冶炉跡が出土 有年 牟礼・井田遺跡を訪ねる  2011.2.11.   1103une01.htm

  西播磨初の古墳時代後期末の鍛冶工房跡が出土
1.赤穂市有年 牟礼・井田遺跡 walk 2011.2.11.  

西播磨初の古墳時代後期末の鍛冶工房跡が出土した 有年 牟礼・井田遺跡 現地説明会 2011.2.11.午後

2月11日 神戸の朝は大雪。いくらなんでも今日は言説ないだろうと念のため、確かめの電話を入れると 西播磨は天気も回復し、遺跡の周辺も全く雪もなく、予定通り現地説明会があるという。もう 西播磨と神戸では全く天候も違う。あわてて 11時過ぎの新快速・快速と乗り継いで、相生発糸崎行の電車に飛び乗る。相生から左手海岸沿いを行く赤穂線の電車を眺めながら、市街地を抜けるとすぐ電車は 岡山との県境の山岳地帯の入口にあたる丘陵地の間に入ってゆく。
地図を見ると相生の西は南北両側に小さな山並みに挟まれたが幅の狭い平地部で、ここを東から西へ矢野川が流れ下り、この狭い平地の出口で千種川に合流する。この矢野川が西の千種川に合流するまでの東西に延びる平地部が「有年」である。
南北を小さな山並みで隔てられ、その山裾から平地部部中央を流れる矢野川への緩やかな傾斜地に点々と田園と集落が拡がり、
南側の山際の一段高いところを国道2号線と山陽線が岡山へ走り抜ける。
西の千種川との合流点を上へ遡れば 上郡から佐用を通って中国山地 南へ下ると赤穂。 そのまま西へ山中を船坂峠を越えると岡山県備前・和気へと抜けてゆく。
西播磨の地図
相生から真直ぐ西へ山の間に入ったところが「有年」
赤穂市有年周辺の地形図と 有年地域の遺跡分布
有年は弥生時代と古墳時代の遺跡集積が大きい
びっくりでした
あまり 気には留めていませんでしたが、この「有年」は千種川左岸 瀬戸内と山陰 そして山陽道の結節点。 
弥生時代から開けたところで、 弥生後期から古墳時代にかけて 矢野川の北側の緩やかな傾斜地や 山裾には数多くの初期古墳群があり、吉備と大和を結ぶ西播磨の重 要ポイントとの側面を見せる。相生駅を出て 約5分 山間に広がる田園の風景を眺めていると北側 線路沿いの畑の一角にブルドーザーと整地残土の山と共に横にテント が張られた発掘調査地が見え、これが「有年 牟礼・井田遺跡」。
電車はスピードを緩め、有年駅に停車。神戸から約1時間半12時30分 に到着。 
13時30分から現地説明会があるので、もっと沢山人が下り るかと思いましたが、京阪神からはちょっと離れたところで鍛冶遺跡で は人気がないのか、有年駅では数人がばらっと下車。 駅前に有年の地域案内板があるのですが、よく判らず。 む一緒に降りたおばちゃんが 「駅前の国道を戻って 途中踏切を渡るの が一番早い」と教えてくれる。 
周囲を山で囲まれてはいるが、南側の山裾の一段上にある駅から見る 北側には奥行きのある傾斜地に田園が広がり東西に延びる平地部も 長いので閉塞感はない。明るい平地が広がる山合いの感じの場所で ある。

山陽線が有年駅に入るすぐ手前線路際に有年 牟礼・井田遺跡が見える
有年駅[上:東 相生側 下;西 上郡側]
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国道2号線に出て、東へ少し戻る。 
国道2号線というと片側2車線が標準と思っていましたが、ここでは南側を山腹 北側を崖になった傾斜地に阻まれた狭い地形。拡幅の余地がなく、今回この国道を並行する山陽線の北側の平地部に移す工事が計画された。その道路部にあたる牟礼・井田遺跡の発掘調査が平成19年から進められてきた。
今までの調査で北側奥から南側 かつての矢野川の岸まで広がる緩やかな傾斜地に弥生中期後半の集落遺跡跡があり、屋根の上に土がかぶせられた土屋根の焼失竪穴住居2棟が見つかるなど貴重な弥生中期後半の集落跡や古墳時代前期の集落遺跡であることが分かっている。
今回は一番南側の川岸 集落のはずれ部にあたる場所の調査で、弥生中期後半の集落跡に加え、古墳時代の前期・後期の集落跡とその時代を示す遺物が数多く見つかった。

牟礼・井田遺跡の南側山際を走る国道2号線
すぐ下を山陽本線が並行し、
その向こうに牟礼・井田遺跡が見える
その中で、今回の調査区西側の一角 田圃耕土から約40センチ掘り下げた地層で炉底とみられる直径約40センチの焼土面や広範囲の焼土・炭集積部や多数の土器が見つかった。 
また、この区画の中 半径10メートル以内で掘立柱建物跡と考えられる柱穴列、鉄滓も出土。
さらに、20メートルほど離れたところからは炉に空気を送り込む「ふいご」の羽口片も発見され、
土器片などから 古墳時代後期の鍛冶工房に関連する建物跡の可能性が高いという。
 西播磨で古墳時代の鍛冶工房の出土は初めてである。 (2011.2.11 現地説明会資料より まとめ)
テキスト ボックス:
        西側から 有年牟礼・井田遺跡 現地説明会の準備がされた今回の調査区を眺める 2011.2.11.
左手遠くに遺跡を眺めながら国道を東へ少し歩くと国道から左の平地に降りる道があり、踏切が見えている。
この道を下りて 踏切を渡ると東西に広い耕作地がひろがっており、この耕作地から北側一帯が有年牟礼・井田遺跡である。
右手相生側 線路沿いのところが今回の遺跡調査区。区画の端の残土の上にブルドーザが見え、そのブルドーザと山陽本線の間が発掘調査された部分で、調査区のグランシートが取り外され、出土した遺構の横に遺構名を示す看板が立てられ、今日の現地説明会の準備がされている。田圃のあぜ道を歩いて 遺跡の前に出ると現地説明会の受付テントが設けられ、その横に今回の発掘の概要が写真パネル展示されている。 
まだ 1時前で人もまばら。受付で現地説明会の資料をもらう。 北側奥には両側をこちらへ枝尾根を張り出した小さな山があり、この二つの枝尾根に挟まれた傾斜地に田畑や集落がこの遺跡まで広がり、この傾斜地を横切って 東西に流れる現在の矢野川の土手が見える。 言説の資料によればこの矢野川までの広い範囲が牟礼・井田遺跡である。

                      現地説明会の準備の整った有年 牟礼・井田遺跡の南側から北側を眺める

      有年 牟礼・井田遺跡の今回の調査区域(左)と発掘された遺構概略図  現地説明会資料より
遺跡の北側小高い山までのなだらかな斜面に集落や田畑が広がり その中央部を現在の矢野川土手が横切っている発掘調査された調査区は平地の田圃の中にあり、遺跡の端に立っても全体がつかみにくい。
現地説明会がはじまるまで、まだ時間があるので、東側に高く積み上げられた残土の上に登って、もらった現地説明会資料と突き合わせながら遺跡の概要を頭に入れる。

有年 牟礼・井田遺跡を東の残土の上から眺める 今回の調査区全景とその概要 2011.2.11.
南側すぐ上を山陽本線が並行して 東西に延びる今回の調査区は国道2号線付け替えで道路になるところ。
後の現地説明で聞いた話では 矢野川は何度もこの周辺で氾濫し、水路を変更。線路側半分斜めに水がたまっている部分は平安時代の河川跡で、右側の端を斜めに弥生時代の小河川跡が露出していると。
そして 調査区の北側から緩やかな斜面でこの川岸まで 弥生時代中期の集落があり、写真上方に古墳時代の集落跡の東端がみつかり、そこに鍛冶工房が出土。
この調査区の更に西側未調査部にさらに古墳時代の集落跡が眠っており、
この部分の調査が進まないと今回の鍛冶工房跡の性格も確定できないとい
う。また、この写真に写ってはいないが、写真右側北側奥の山にはこの遺跡の時代の古墳群(塚山古墳群・木虎谷古墳群)が眠っているという。
残土の上から見ると この「有年」の地も 他の古代豪族の本拠地とよく似通っていることがわかる。
ぐるりとまわりを見渡すと 四方をなだらかな山に囲まれ、東西にこの地の入口があり、東の口をでると広大な西播磨の平野部
西の入り口には中国山地から瀬戸内海に流れ下る千種川で、川を下ればすぐ瀬戸内 川を遡れば奥播磨から美作・山陰へと続く。 北から南へなだらかに傾斜する平地が南側の山裾を東口から西口へ流れ下る矢野川の川岸までひろがり、その時代時代の集落が営まれ、背後の山腹には 古墳時代 ここに住んだ人たちの古墳群が営まれている。
やっぱり この地は西播磨の豪族が拠を構えた地だろうか  
南の山の向こうは 古代の職能渡来集団 秦氏の進出地 渡来人と関係していないだろうか   
この地は「古代の鉄の道」につながっているのだろうか…
「大和王権の成立に大きな役割をはたした西播磨 その源泉はなにか」 この地もそんな西播磨の拠点 
そして それには「鉄」が絡んでいるのか・・・・・ 
どんどん イメージが膨らみ たのしみな現地説明会の始まりを待つ。
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1103une01.htm   2011.3.5.  by Mutsu Nakanishi