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古 代からの石切りの郷 高砂市「生石(おおしこ)」Walk 2009.2.27. tksgo00.htm by Mutsu Nakanishi . 1. 謎の古代石造物「石の宝殿」 & 大型古墳の石棺材料「竜山石」を訪ねて . 古代からの石切の郷 「生石」(高砂市)Walk 2009.2.27. . 1.1. 石の宝殿 高砂市 生石神社 石棺材料「竜山石」の郷にある不思議な石造物 . 1.2. 古代からの石切りの郷 高砂市「生石」Walk 2. 資料にみる 石切の郷 「生石」 - 石の宝殿 & 竜山石 概説 - . 高砂市生石神社 石の宝殿 高砂市 古代からの石切りの郷の石切り場 竜山 加古川の河口近く 瀬戸内海・播磨灘 淡路島を見晴らせる岩山 「竜山」の尾根筋の岩斜面 を四角く刳り貫いた大きな空間に 謎の石造物「石の宝殿」が倒れた姿で鎮座している生石神社がある。 この謎の石造物がいつ作ら れたかは不明であるが、生石神社の社伝によると 「神代の昔 大己貴命(大国主命)と少彦名神が出雲国から播磨国に来た際に、石の宮殿を造ろうとして一夜のうちに 現在の 形まで造ったが、途中で播磨の土着の神の反乱が起こり、宮殿造営を止めて反乱を鎮圧した。 しかし、夜が明け夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったが、 「たとえ此 の社が未完成になっても、霊はこの石に籠もり 永遠に国土を鎮めん」と言われた」 と伝えられ、それ以来此の宮殿を「石の宝殿」、「鎮の石室」と称して いると伝えられている。 古代の謎の石造物 石の宝殿 巨大な社殿風横倒し石造物 横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2m このような巨大石造物の製作には強 い鉄器工具の使用が不可欠であり、 祭神である大国主命と少彦名命は古代製鉄と関係の深い出雲神であるこ となどから、この地が古い時代製鉄集団と関係があったのではないか?と の説がある。 加古川の河口近く 瀬戸内海・播磨灘 淡路島を見晴らせる岩山「竜山」の 尾根筋の岩斜面 を四角く刳り貫いた大きな空間に謎の石造物「石の宝殿」 が倒れた姿で鎮座している生石神社がある。 この謎の石造物がいつ作られたかは不明であるが、 生石神社の社伝によると「神代の昔 大己貴命(大国主命)と少彦名神が出 雲国から播磨国に来た際に石の宮殿を造ろうとして一夜のうちに現在の形 まで造ったが、途中で播磨の土着の神の反乱が起こり、宮殿造営を止めて 反乱を鎮圧した。 しかし、夜が明け夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったが、「たとえ此の社が未完成になっても、 霊はこの石に籠もり 永遠に国土を鎮めん」と言われた」と伝えられ、それ以来此の宮殿を「石の宝殿」、「鎮の石室」と称していると伝えられている。 このような巨大石造物の製作には強い鉄器工具の使用が不可欠であり、祭神である大国主命 と少彦名命は古代製鉄と関係の深い出雲神であることなどから、この地が古い時代製鉄集団と関係があったのではないか?との説がある。 また、この周辺から採取される「竜山石」は古墳時代中期畿内の権力者のほとんどの 石棺に使った「大王の石」で、大和王権と密接な関係を持っている。西へ向かう新幹線が神戸を出て、西明石を過ぎてまもなく 加古川を渡ると山全体が石切り 場に見える白い岩崖が立ち並ぶ小高い山が見えてくる。 この山が「竜山」で 石の宝殿はこの岩山の山腹にある。 野球好きであれば知っている高砂球場のすぐ隣 を流れる法華山谷川をはさんで西側の岩山である。 淡路島の北部淡路市の丘陵地の尾根筋か ら弥生時代後半 卑弥呼の時代の国内最大級の鍛冶工房村「垣内遺跡」が発掘され、その現地説明会に参加。 この垣内遺跡からは正面に播磨灘・家島群島 男 鹿島、右手にはすぐ近くに姫路・加古川の海岸線が一望。 この大鍛冶工房村のルーツは古代の大製 鉄地帯である播磨とつながっているのではないか・・・・・・ そして、すぐ手の届く対岸の海岸近くに鉄器工具なくしては作られ得なかった謎の石造物 石の宝 殿。 そして周囲の岩山は畿内の首長クラスの石棺材料「竜山石」を大量に切り出したところ。 これらは ひょっとして 古代の製鉄集団でつながるのではな いか・・・と。 何回か出かけたことはあるが、「竜山 石」の産地として出かけたことはなく、石の宝殿も記憶があいまいになっている。 本当に鉄器が必要との確信がもてるだろ うか・・・・と。 . 生石の郷の「竜山石」石切り場 法華谷川より 竜山 石切りで垂直に切り取られた崖 右端山腹に 生石神社 古墳時代 中期より 畿内大型古墳 家型石棺のほとんどが竜山石で作られた ひょうご考古学セミナー資料より 中央写真は近つ飛鳥博物館展示 より 1月 ひょうご考古学セミナーで「竜山石」について 話を聞いたところであったことも一因なのですが、一度 淡路の記 憶がクリアーな間に石の宝殿へ出かけようと 2月27日朝 原付バイクで出かけました。私の家から石の宝殿までは2時間あれば十分 加古川周辺へは何度も 出かけたよく知った道。 石の宝殿は国道から少し南へ入らねばならず、石の宝殿 そして 古代からの石切り場である「竜山」には長いこと行ったことがな い。 どこでも 自由に登れ、止められるので原付バイクは近場のハイクに は、本当に便利なのですが、 今回はどうしても 市街地・国道を抜けていかねばならず、排気ガスを吸って花粉症がもろに再発。 ひどい目にもあいました。 そんなんで、竜山の頂上への登る道を探そうとも思ったのですが、ど うも道がはっきりせず、砕石場が島をめぐる男鹿島が頭をよぎって、地図にある三角点へはよう行きませんでした。 なお、電車だと最寄駅はJR宝殿駅から歩 いて20分ほど。 石の宝殿や竜山石 と和鉄の関連や石の 宝殿の位置づけなど 興味を持っていること多いのですが、まだ調べが進んでいません。 今回は不思議な古代石造物 石の宝殿の概要と 古墳時代 畿内各地 の大王の石棺材料「竜山石」の産地の紹介を石の宝殿 walk(写真) と PDF資料の石の宝殿概説をにまとめました。 また、 今回まだ調べられていませんが 今 この播磨 生石の地に興味を持っている事柄を、以下に記しておきます。 1. 今回 あらためて 巨大な石の宝殿を眺めて、 これは「鋼」素材による強力な鉄製の工具が大量になければ製作で きなかったろうと。 そうすると この製作年代は日本で製鉄がはじまった6世紀以降なのかもしれない。 2. 一説には この石の宝殿が播磨風土記(713)に 「 原の南に石の造作物がある。 その形は家屋の如くで、長さは二丈、巾は一丈五尺で、高さも同様である。その名号を大石という。 言い伝えによると、聖徳の王の御代に弓削大連(物部守屋)が作った石である。 」 とあり、この石の宝殿の製作は7世紀といわれる。また、物部氏は古代の製鉄集団の頭である。 でも 物部氏が関係していたとすると出雲神は祭らないのではないか・・・・・・。 また、大和 明日香と葛城の境の小高い山の頂上部にこの石の宝殿とそっくり同じ形の石造物があると聞く。この関係も面白い。 3. 続々と古代の製鉄関連集団がこの地と関連を持ってい るとの伝承。 竜山石の産地ということだけが この地の重要性の理由だろうか・・・・ それとも やっぱり、この地が「鉄」など交易品の瀬戸内東部の流通路の重要拠点だったのだろうか・・・・。 . 先頭に戻る |< << 前頁 < tksgo00.htm > 次頁>> 最後頁 .
2009.2.27. tksgo00.htm by Mutsu Nakanishi
加古川の河口近く 瀬戸内海・播磨灘 淡路島を見晴らせる岩山 「竜山」の尾根筋の岩斜面 を四角く刳り貫いた大きな空間に 謎の石造物「石の宝殿」が倒れた姿で鎮座している生石神社がある。 この謎の石造物がいつ作ら れたかは不明であるが、生石神社の社伝によると 「神代の昔 大己貴命(大国主命)と少彦名神が出雲国から播磨国に来た際に、石の宮殿を造ろうとして一夜のうちに 現在の 形まで造ったが、途中で播磨の土着の神の反乱が起こり、宮殿造営を止めて反乱を鎮圧した。 しかし、夜が明け夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったが、 「たとえ此 の社が未完成になっても、霊はこの石に籠もり 永遠に国土を鎮めん」と言われた」 と伝えられ、それ以来此の宮殿を「石の宝殿」、「鎮の石室」と称して いると伝えられている。
加古川の河口近く 瀬戸内海・播磨灘 淡路島を見晴らせる岩山「竜山」の 尾根筋の岩斜面 を四角く刳り貫いた大きな空間に謎の石造物「石の宝殿」 が倒れた姿で鎮座している生石神社がある。
この謎の石造物がいつ作られたかは不明であるが、 生石神社の社伝によると「神代の昔 大己貴命(大国主命)と少彦名神が出 雲国から播磨国に来た際に石の宮殿を造ろうとして一夜のうちに現在の形 まで造ったが、途中で播磨の土着の神の反乱が起こり、宮殿造営を止めて 反乱を鎮圧した。
しかし、夜が明け夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったが、「たとえ此の社が未完成になっても、 霊はこの石に籠もり 永遠に国土を鎮めん」と言われた」と伝えられ、それ以来此の宮殿を「石の宝殿」、「鎮の石室」と称していると伝えられている。
このような巨大石造物の製作には強い鉄器工具の使用が不可欠であり、祭神である大国主命 と少彦名命は古代製鉄と関係の深い出雲神であることなどから、この地が古い時代製鉄集団と関係があったのではないか?との説がある。 また、この周辺から採取される「竜山石」は古墳時代中期畿内の権力者のほとんどの 石棺に使った「大王の石」で、大和王権と密接な関係を持っている。西へ向かう新幹線が神戸を出て、西明石を過ぎてまもなく 加古川を渡ると山全体が石切り 場に見える白い岩崖が立ち並ぶ小高い山が見えてくる。 この山が「竜山」で 石の宝殿はこの岩山の山腹にある。 野球好きであれば知っている高砂球場のすぐ隣 を流れる法華山谷川をはさんで西側の岩山である。
また、この周辺から採取される「竜山石」は古墳時代中期畿内の権力者のほとんどの 石棺に使った「大王の石」で、大和王権と密接な関係を持っている。西へ向かう新幹線が神戸を出て、西明石を過ぎてまもなく 加古川を渡ると山全体が石切り 場に見える白い岩崖が立ち並ぶ小高い山が見えてくる。 この山が「竜山」で 石の宝殿はこの岩山の山腹にある。 野球好きであれば知っている高砂球場のすぐ隣 を流れる法華山谷川をはさんで西側の岩山である。
淡路島の北部淡路市の丘陵地の尾根筋か ら弥生時代後半 卑弥呼の時代の国内最大級の鍛冶工房村「垣内遺跡」が発掘され、その現地説明会に参加。 この垣内遺跡からは正面に播磨灘・家島群島 男 鹿島、右手にはすぐ近くに姫路・加古川の海岸線が一望。
この大鍛冶工房村のルーツは古代の大製 鉄地帯である播磨とつながっているのではないか・・・・・・ そして、すぐ手の届く対岸の海岸近くに鉄器工具なくしては作られ得なかった謎の石造物 石の宝 殿。 そして周囲の岩山は畿内の首長クラスの石棺材料「竜山石」を大量に切り出したところ。 これらは ひょっとして 古代の製鉄集団でつながるのではな いか・・・と。
何回か出かけたことはあるが、「竜山 石」の産地として出かけたことはなく、石の宝殿も記憶があいまいになっている。
本当に鉄器が必要との確信がもてるだろ うか・・・・と。
1月 ひょうご考古学セミナーで「竜山石」について 話を聞いたところであったことも一因なのですが、一度 淡路の記 憶がクリアーな間に石の宝殿へ出かけようと 2月27日朝 原付バイクで出かけました。私の家から石の宝殿までは2時間あれば十分 加古川周辺へは何度も 出かけたよく知った道。 石の宝殿は国道から少し南へ入らねばならず、石の宝殿 そして 古代からの石切り場である「竜山」には長いこと行ったことがな い。 どこでも 自由に登れ、止められるので原付バイクは近場のハイクに は、本当に便利なのですが、 今回はどうしても 市街地・国道を抜けていかねばならず、排気ガスを吸って花粉症がもろに再発。 ひどい目にもあいました。 そんなんで、竜山の頂上への登る道を探そうとも思ったのですが、ど うも道がはっきりせず、砕石場が島をめぐる男鹿島が頭をよぎって、地図にある三角点へはよう行きませんでした。 なお、電車だと最寄駅はJR宝殿駅から歩 いて20分ほど。
どこでも 自由に登れ、止められるので原付バイクは近場のハイクに は、本当に便利なのですが、 今回はどうしても 市街地・国道を抜けていかねばならず、排気ガスを吸って花粉症がもろに再発。 ひどい目にもあいました。 そんなんで、竜山の頂上への登る道を探そうとも思ったのですが、ど うも道がはっきりせず、砕石場が島をめぐる男鹿島が頭をよぎって、地図にある三角点へはよう行きませんでした。 なお、電車だと最寄駅はJR宝殿駅から歩 いて20分ほど。
石の宝殿や竜山石 と和鉄の関連や石の 宝殿の位置づけなど 興味を持っていること多いのですが、まだ調べが進んでいません。 今回は不思議な古代石造物 石の宝殿の概要と 古墳時代 畿内各地 の大王の石棺材料「竜山石」の産地の紹介を石の宝殿 walk(写真) と PDF資料の石の宝殿概説をにまとめました。
また、 今回まだ調べられていませんが 今 この播磨 生石の地に興味を持っている事柄を、以下に記しておきます。 1. 今回 あらためて 巨大な石の宝殿を眺めて、 これは「鋼」素材による強力な鉄製の工具が大量になければ製作で きなかったろうと。 そうすると この製作年代は日本で製鉄がはじまった6世紀以降なのかもしれない。 2. 一説には この石の宝殿が播磨風土記(713)に 「 原の南に石の造作物がある。 その形は家屋の如くで、長さは二丈、巾は一丈五尺で、高さも同様である。その名号を大石という。 言い伝えによると、聖徳の王の御代に弓削大連(物部守屋)が作った石である。 」 とあり、この石の宝殿の製作は7世紀といわれる。また、物部氏は古代の製鉄集団の頭である。 でも 物部氏が関係していたとすると出雲神は祭らないのではないか・・・・・・。 また、大和 明日香と葛城の境の小高い山の頂上部にこの石の宝殿とそっくり同じ形の石造物があると聞く。この関係も面白い。 3. 続々と古代の製鉄関連集団がこの地と関連を持ってい るとの伝承。 竜山石の産地ということだけが この地の重要性の理由だろうか・・・・ それとも やっぱり、この地が「鉄」など交易品の瀬戸内東部の流通路の重要拠点だったのだろうか・・・・。 . 先頭に戻る |< << 前頁 < tksgo00.htm > 次頁>> 最後頁 .
「 原の南に石の造作物がある。 その形は家屋の如くで、長さは二丈、巾は一丈五尺で、高さも同様である。その名号を大石という。 言い伝えによると、聖徳の王の御代に弓削大連(物部守屋)が作った石である。 」
とあり、この石の宝殿の製作は7世紀といわれる。また、物部氏は古代の製鉄集団の頭である。
でも 物部氏が関係していたとすると出雲神は祭らないのではないか・・・・・・。
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