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卑弥呼の時代からの大陸への玄関口 若狭・北近江の「若狭街道」
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9.  大陸・朝鮮半島の鉄をもとめて続く若狭・北近江の「和鉄の道」を訪ねる


2.1.  近江今津駅からJRバスで 若狭街道 水坂峠を越えて 若狭熊川宿・上中町へ
   日本海沿岸 若狭側の入口にある古代大和と結ぶ首長級の古墳群 脇袋古墳群を訪ねる
      
新旭駅から約5分で近江今津。
古くから西近江 琵琶湖交通の要で、この港と若狭街道を経由して 日本海と近江・大和・が結ばれる。
湖西線近江今津駅から新快速電車に接続して1時間に1本の若狭街道を通って若狭小浜線の上中駅から小浜駅へ約1時間で結ぶ路線バスがある。
今は湖西線を新快速電車が敦賀まで走っているので、敦賀から小浜線で若狭へ行くこともできるが、若狭へはこの路線バスを利用する方が、はるかに早く便利である。
若狭街道は近江今津からまっすく若狭と近江の分水嶺水坂峠へ石田川を遡り、峠を越えて若狭側の北川水系を真っ直ぐ、上中町・小浜へと下ってゆく。
航空写真で見るとこの若狭街道の道筋は中央構造線が走る四国吉野川水系や紀伊紀ノ川水系と同じく直線的に切れ落ちた断層地溝帯の中なのだろう、海岸まで直線的な地溝。
距離的にもストレートの短い最短距離である。
縄文・弥生の時代から日本海側から近江・琵琶湖へ抜けるこの地溝帯の道を知っていて、多くの人たちがこの道を往来した。弥生・古墳時代の昔から、大陸・朝鮮半島の「鉄」もこの道を通って近江へもたらされたに違いない。
また、若狭街道は「鉄の道」である。
当時日本では鉄素材を作ることは出来ず、朝鮮半島にその供給を求めた。当初 北九州の諸国に独り占めされていた「鉄」が、弥生の中期・後期には日本海側の山陰・北陸で急増し、そして 大和にも数多くの鉄器が持ち込まれ、
この鉄器の力を背景に大和王権が支配を強めてゆく。この鉄の供給ルートが北九州諸国の手から離れ、日本海ルート・瀬戸内ルートが確立されてゆくとともに大和王権が形作られてゆく。
若狭街道は日本海側から大和への「鉄の道」の北の玄関口である。
水坂峠を挟んで、近江側には弥生時代 鉄器とともに多数の鉄素材が出土した熊野本遺跡があり、そして、その後、古墳時代になると同じ地に大和と結ぶ地域の有力皇族が前方後方墳・前方後円墳をつくり、この地を固める。(熊野本古墳群)
一方、近江から北川沿いに下ってくる若狭街道が山並みを抜け海岸沿いの平地に出たところに位置する上中町にもそんな遺跡が残されている。この北川流域を支配した地域豪族が現れ、この地に次々と古墳を築いた。
中でも、5世紀上中町北川の北岸の山裾「脇袋」に築かれた脇袋古墳群はこの地に築かれた前方後円墳の最も古いものであり、大和と密接につながっていたことをこの前方後円墳が示している。
背景に大陸から持ち込まれてくる「鉄」があったに違いない。
 
若狭地方の主要古墳位置図 
近江からの出口上中町に古墳が集中 
若狭で一番古い前方後円墳が築かれた上中町脇袋 
若狭街道の若狭側と近江側の出入口に大和と結ぶそれぞれの地域首長がどっしりと勢力を伸ばし、この交易路を行き来する文物を管理する。大和がこの「鉄の道」を非常に重要視していた証だろう。
そして この道は古代ばかりでなく、現在に至るまで、その後も日本海側と近江や畿内・大和 そして京都を結ぶ重要路でありつづける。
また、近世の若狭街道・京街道のなごりとして、峠下に熊川宿の家並みが歴史的家並保存地区として残っている。
琵琶湖岸の近江今津駅からバスに揺られて 若狭と近江の分水嶺 水坂峠を越えて約40分ほどで熊川宿。
テキスト ボックス:     若狭街道沿いを流れ下る北川     水坂峠を越えて若狭に入って熊川宿         この地の王墓 脇袋古墳群が山裾に見える脇袋の里     若狭街道の若狭側の入口 若狭上中町 テキスト ボックス:     若狭街道沿いを流れ下る北川     水坂峠を越えて若狭に入って熊川宿         この地の王墓 脇袋古墳群が山裾に見える脇袋の里     若狭街道の若狭側の入口 若狭上中町 
若狭街道沿いを若狭湾へ流れ下る「北川」       水坂峠を越えて若狭に入ったところが熊川宿テキスト ボックス:     若狭街道沿いを流れ下る北川     水坂峠を越えて若狭に入って熊川宿         この地の王墓 脇袋古墳群が山裾に見える脇袋の里     若狭街道の若狭側の入口 若狭上中町 
若狭国の王墓 脇袋古墳群が膳部山の山裾に見える脇袋の郷
若狭街道の若狭側の出入口 若狭 上中町
蛇足ながら 近江と若狭の分水嶺は「水坂峠」であるが、県境は少し西へ下った「熊川」の入口にある。
分水界が県境になっているのに、水坂峠周辺のみだけが、峠を越えて若狭側に食い込んでいる。
これも 近江・畿内側の勢力が強く 水坂峠周辺を近江側に位置づけ手おきたかったのかもしれない。
街道筋が重要な地であった証拠でもあろう。
 
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0810wksa02a.htm    2008.10.1.  by Mutsu Nakanishi