山口県秋吉台カルストの東山麓に「奈良の大仏」の「銅」を産出した「長登銅山」がある。
この秋吉台カルストを初め、山口県の中央部から日本海岸の山中には銅をはじめ、鉄・銀など古くから知られた鉱物資源であり、またこの南側には石灰岩・大理石や石炭の資源も広がる。
もう、10数年前仕事で赴任した山口県美祢の隣町で、町のあちこちに大仏様のかわいらしい看板に「奈良の大仏の銅を算出した町」とかかれ、「長登銅山」を何度か訪ねたことがある。
まだ遺跡が整備される前で、「この山中に沢山 昔の坑口があるのか」とのおぼろげな記憶しかなし。
その美東町が秋吉台・秋芳洞のある秋芳町と一緒に平成の大合併で美祢市美東町に。
そして、仲間から「この美東の長登銅山で町興しの行事として、
たたら製鉄と同じような円筒炉で古代銅の復元実験が行われている。」との便り。
鉄と同じ円筒炉での銅の還元製錬と聞いて
「銅は溶鉱炉では作れないのでは??? 銅滓カラミ
とカワ」など複雑な工程だったはずと昔勉強したイメージ。
一方銅は鉄より早く、古墳時代から銅鏡・銅矛・銅鐸など数々の製品が造られ、
「溶融温度が低い分 鉄と違って簡単だ」とのイメージも。
色々調べてみるとこれが大変。銅資源はの鉱石は鉄資源と異なり、
資源が酸化物系が早くに枯渇し、硫化物系に移行し、非常に苦労した時代があったのを知りました。
古代 山に露頭の自然金属銅が転がっていたり、自然風化で出来た地表近くの酸化銅鉱石があった古代円筒炉(溶鉱炉)での製錬が出来たのです。ところが、古代の末から中世にかけてこの銅鉱石が使い切られ、
地中深くにある硫化銅系鉱石(鉄や他の不純物等を多量に含む黄銅鉱等)が主になると
精錬技術の進んだわずかの銅山を除いて、量産もできず、粗悪な銅が蔓延し、日本の銅山は衰微してゆく。
銅資源が枯渇して銅銭も作ることができず、数百年に渡って中国から品質の良い銅銭が大量輸入され、
それをつぶして 銅製品を作ったという。
「鎌倉の大仏」は そんな輸入銅銭が材料だという。
そして、中世末 近世近くになって、日本独自の方法として、
この溶融した硫化銅を空気にふれさせ、脱硫酸化させて 効率よく硫黄・鉄や不純物を除去する技術が編み出され、
硫化銅系鉱石から安定して効率的に品質の良い銅を取り出す技術が開発された。
これにより、近世 別紙・足尾・小坂などの銅山が新たに開発され、再度日本で銅の量産が始められた。
この間 銅の工人たちは何年も何年も幾世代にわたって、銅の製錬法開発に苦労したに違いない。
しかし、この技術開発者は時代の中に埋もれ、良く判っていない。
今、石見大森銀山が世界遺産に登録され、近世世界への銀の供給基地であったこと
また、銀の取り出し技術「灰かぶり」の発明などが脚光を浴びているが、
そのベース義出にあったのが、この硫化銅鉱堰の処理技術の苦闘にあったに違いない。
そんな古代の銅製錬から延々と近代にいたるまで、銅を作り続けた「長登銅山」。長登には古代から品質の良い銅を作り出す技術があったともいわれる。
別子銅山・足尾銅山や石見銀山のような派手さはないが、この新しい近世の銅技術開発にも立ち会ったにちがいない。 歴史の承認として整備されているという「長登銅山跡遺跡」をたずねたくなって、6月に山口へ帰った時に半日訪れ、よく整備された銅山跡を歩きました。
金属製錬技術は「鉄」ばかりでなく「銅」も一筋縄ではいかず、単なる付け焼刃のものまねでは出来なかった「ものづくりの技」
そこには日本の歴史が深く詰め込まれています。 |
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そんな古代の銅製錬から延々と近代にいたるまで、銅を作り続けた「長登銅山」。長登には古代から品質の良い銅を作り出す技術があったともいわれる。
別子銅山・足尾銅山や石見銀山のような派手さはないが、この新しい近世の銅技術開発にも立ち会ったにちがいない。
歴史の承認として整備されているという「長登銅山跡遺跡」をたずねたくなって、6月に山口へ帰った時に半日訪れ、
よく整備された銅山跡を歩きました。
金属製錬技術は「鉄」ばかりでなく「銅」も一筋縄ではいかず、
単なる付け焼刃のものまねでは出来なかった「ものづくりの技」
そこには日本の歴史が深く詰め込まれています。
今 世の中「レアアース・希土類金属」が広く脚光をあびていますが、其れを取り出す「ものづくり」の技術に眼を向ける人は少ない。
でも そこに「質」そして歴史を作ってゆく「業」や「底力」が潜んでいる。
ひとりよがりですが、そんなことを感じた「奈良の大仏を作った長登銅山跡」Walkでした。
なお、山口市の北東の隣町徳地もまた、東大寺奈良大仏とかかわりのある町。
東大寺の大仏殿の再建を成し遂げた長源が自らこの地に赴任して 大仏殿や伽藍再建用の木材を切り出した地だという。
山口では最近はこちらの方が「長登」よりも有名という。
この徳地の山も「重源の郷」として整備されていると聞いて、こちらも立ち寄ってきました。
2008.6.10. by Mutsu
Nakanishi |