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1.  近畿 弥生時代後期 淡路島に西日本最大級の鍛冶工房村が現れた時代の2・3世紀
「幻の鉄器の時代 鉄器は出土しないが、急速な鉄器化」との考えに疑問符 
 
-鉄器時代のイメージ先行の弥生時代「北部九州以外 実用鉄器はさほど普及していなかったのではないか」- 
1103iron00.htm   2011.3.5.   by Mutsu Nakanishi
先月 掲載した「和鉄の道」 淡路島「弥生時代の後期の大鍛冶工房村 五斗長垣内遺跡」の記事の中で、この五斗長垣内遺跡が出現した2・3世紀頃 近畿地方では 近畿での鉄器の集落遺跡からの出土は少ないが、石器から鉄器への急速な変革が起こったのではないか」とする話を紹介した。
【和鉄の道 Iron Road】
弥生後期から卑弥呼の時代へ ベールを脱いだ「弥生のIron Road 和鉄の道」 2010.11.21
鉄の刃を持つ農耕具の一例
「鉄器は腐食で土に帰ってゆくため出土しないが、鉄器の木製の柄が多数出土する」「石器出土数に対する砥石数が急速に増加し、石器が減 少し、鉄器の研磨が急速に増加したことが推定される」
との考え方である。この時代 近畿では 九州や 急速に 出土数を伸ばした日本海側山陰沿岸や安芸・吉備など瀬戸内沿岸に比しても 鉄器の出土数が少ない。 そして トピック的な大型鉄器も出土していない。
記事掲載はしたもののこの「幻の鉄器」の時代・「卑弥呼の登場前の近畿地方の集落では 急速な鉄器化が進んでいた」との考え方には どうもしっくりゆかず、この疑問について本資料にまとめました
 
弥生時代県別の鉄器出土数
弥生の後期 九州各地に加え 山陰・安芸・吉備での
鉄器出土が増加するが、近畿での出土数は依然として少ない
五斗長垣内遺跡の鍛冶工房跡

五斗長垣内遺跡の鍛冶炉跡

五斗長垣内遺跡出土の鉄製品

五斗長垣内遺跡出土の鉄素材と
その切れ端

この「幻の鉄」の考え方は次の古墳時代には日本の中心になってゆく近畿にも 日本海沿岸地域と同じく 弥生時代後期には急速な鉄器化鉄器の集積ががあったのではないか…との考え方である。
「鉄器は腐食で土に帰ってゆくため、出土せず、鉄器の木製の柄が多数出土する」事実や
「鉄器出土数に対する砥石数が急速に増加し、鉄器の研磨が急速に増加したことが推定される」事実を紹介し、
「鉄が出土しないが 鉄器が急速に普及していったことが読み取れるとした『幻の鉄器』の時代」の存在の可能性を紹介した。
しかしながら、「幻の鉄」の時代といわれるこの時代に西日本最大級の鍛冶工房村とみられる「淡路島 五斗長垣内遺跡」そこから出土した鍛冶炉は近畿の鉄器の時代を象徴するにはどうもぜい弱であり、出土鉄遺物も小さくて薄いものが主で時代を引っ張るような鉄器は出土していない。
五斗長垣内遺跡で多数出土している鍛冶炉はすべて防湿構造がなく床面に直接火床がある炉で、高温保持が難しく、大型鉄器の鍛冶加工が行われた痕跡はみられない。薄い素材の鏨切加工が主であったとみられる。
また、出土した鉄遺物は薄い鉄素材を鏨切加工した鉄鏃など薄い小型鉄器や薄い鏨切の鉄破片などが主である。
一点厚い大きな板状鉄斧が出土しているが、この五斗長垣内遺跡の鍛冶炉ではこの大型素材を加工できる高温に保持することは難しいというのが専門家の人たちの考え方である。
次の古墳時代には大和・近畿が主役となって大和王権が構築され、前方後円墳など大規模な土木工事が行われ、大規模国土開拓や古墳工事などには大型鉄器の農耕具・工具が必須不可欠であり、この時代が来る前にはすでに急速な鉄器化が近畿で起こっていたと考えるのですが、次の時代に通じる大型の鉄器・農耕具など厚さのある立体的な高温鍛冶加工を可能とする大々的な鉄器加工工房のイメージからは遠く離れている。ギャップが大きすぎる。

また、冷静にこの時代を振り返えると、近畿での鉄器出土数が少ないばかりだけでなく、大阪湾沿岸で数多く繰り広げられた弥生の戦さによる殺傷痕のある人骨に刺さっていた鏃は石鏃や青銅製がほとんどで、この時代にあった弥生の戦の主武器として鉄鏃が広く戦に使われたとも言い難い。
「鉄が土中にうずまっている間に錆によって 土に帰るため、出土しない。」また、「実用鉄器はすぐに再加工され実用されるため、出土しない」とする考えもある。しかし、そうだとしても この状況は近畿のみならず、日本列島全部同じであり、一番さびて 土に帰りやすい薄い鉄鏃が数多く出土しているのである。
また、弥生の集落で出土してくる鉄の遺物などを見ると依然として農耕具の主役は石器であり、弥生時代が「鉄の時代」とはいいがたいのではないか???・
弥生時代後期2・3世紀 鉄器は出土しないが、「近畿地方では 急速な鉄器化が進行した「幻の鉄器」の時代 
それを促す大鍛冶工房村が五斗長垣内遺跡」とする考えには疑問符を付けざるを得ない。
弥生後期2・3世紀頃の近畿の鉄器普及の実態はどうなのか・・・事実はどうなのでしょうか・・・
また、この時代に淡路に出現した大鍛冶工房村五斗長垣内遺跡の位置づけを含め、即断は無理なようだ。

 
ちょうど 1月30日 明石で「鳥取発! 弥生文化シンポジュウム 『とっとり倭人伝 鉄のみち 明石海峡と日本海』」があり、弥生時代後期 大量の鉄器を蓄積した日本海側 妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡と淡路島五斗長垣内遺跡を結び 弥生時代後期の鉄の道を検討するシンポジュウムがあり、新しい知見を得て、近畿地方の弥生時代後期の鉄を考えるよい機会となりました。
これらの知見も入れ、弥生時代の鉄器について考えると 
やはり本当に実用鉄器が日本列島全体に普及するのは古墳時代
近畿に「幻の鉄の時代」はなかったのではないか・・・・と。
弥生時代後期 大量の鉄器を蓄積した日本海沿岸 山陰の妻木晩田遺跡 青谷上寺地遺跡並びにと淡路島五斗長垣内遺跡を結び 弥生時代後期の鉄の道のシンポジュウムで得た知見・スライドなどを以下に紹介し、弥生後期 卑弥呼登場前夜の鉄についてフォローさせていただきました。


「鳥取発!  弥生文化シンポジュウム 『とっとり倭人伝 鉄のみち 明石海峡と日本海』」
                                                   高尾浩司氏討論スライドより  2011.1.30.


硬い大型鉄素材を加工するには 高温保持が可能な鍛冶炉技術など高度な鍛冶加工技術が必要で、朝鮮半島・中国に近く、交流のあった北部九州周辺のみが、稚拙ではあるが、その技術が伝えられたのであろう。
このため、独自のルートを持たぬ北部九州をのぞく他の地域での鉄器製造は 中国・朝鮮半島からの小型鉄素材の加工や薄い板状鉄素材の鏨切加工が主であったと考えられる。
朝鮮半島・中国に近い北部九州では比較的距離の近い大陸・朝鮮半島との交流により、限定的とはいえ、豊富に鉄器・鉄器素材が供給され、鉄器に関連する高度な技術情報も入ってきたと考えられる。 
しかし、北部九州から離れるにしたがって、それらのすべてがさらに先細り、鉄器の普及が進まなかったと考えられる。
鋳造鉄斧などの素材である鋳鉄は硬くて脆いため、そのまま鍛冶加工できない。
しかし、中国では早くから高温加熱して、表面から脱炭して柔らかく靱性のある脱炭鋳鉄にする技術が開発実用され、鉄素材として用いる技術がすでに開発されていた。
 日本に伝来した鋳造鉄斧もそんな表面処理がなされていたものがあるが、大型素材であるため、高温保持が十分行えない鍛冶加工技術では無理であった。ただし、脱炭鋳鉄の小型・棒状素材は北部九州や独自ルートを開拓した日本海沿岸諸国を通じて搬入され、この素材を使った小型鉄器・工具の製作  が一部行われた。
弥生中期後葉に北部九州ではヤリガンナや鉄鏃などの鍛造鉄器がいち早く普及し、高度な鍛冶技術を獲得し、大形鉄器の製作を行うことができるようになったようだ。 しかし、鉄器素材の流通・鉄器加工の技術情報を北部九州に独占隠匿されたそれ以外の地域では大型で高品質の鉄器素材はもとより、高度な加工技術そのものも獲得できなかったと考えられる。

村上恭通氏らの研究によると弥生中期後葉以降 北部九州では明瞭な掘形をもつ防湿構造のある鍛治炉がみられ、
この高温を保持ができる炉を得て、高度な高温鍛冶による大型鉄器が現れてくる。 
しかし、その他の地域では 大多数の鍛冶炉が、防湿構造がなく 床面に直接火床がある鍛冶炉しかみられず、しかも 
一部不完全ながらも薄い掘り込みのある鍛冶炉も時代と共に床面を直に火床とする鍛冶炉に退歩する。
また、この北部九州の防湿構造のある鍛治炉さえもが、弥生時代が進むにつれ、退歩してゆく。 
掘形をもつ防湿構造のある火床・鞴を有する本格的な鍛治炉が広く現れてくるのは古墳時代になってからである。

その原因の一つには 鋳造鉄斧など鉄器の伝来は弥生時代の前期にまでにさかのぼれるにしても、
日本に鉄器が供給されるルートは一部の中国・朝鮮半島からにかぎられ、鉄を造る技術「製鉄技術」や「大型鉄器なども作れる高度な鉄器加工技術」は大陸側 そして北部九州で厳しく制限されていたためであろうか。
また、弥生時代の後期 戦乱に見舞われ、鉄器・鉄器素材の流通は益々先細りになっていったのも原因と言えようか…
この時期 中国・朝鮮半島は戦乱に巻き込まれた時代であり、日本への供給がままならぬ時代であったととも考えられる。鉄素材・鉄器技術の供給地から遠く離れた近畿での実用鉄器の普及はまだまだ思うに任せない時代であったと考えられる。しかし、魏志倭人伝など中国の史書に書かれた日本と朝鮮半島・中国の交流史によれば、弥生時代「鉄」の重要性が強く認識されていたことは疑う余地はない。そして、弥生の終末期から古墳時代にかけて、この大陸の鉄を求める西日本・瀬戸内の国々は連合して邪馬台国連合・初期大和王権をつくり、北部九州から鉄の覇権を奪い取り、日本国家形成へと進んでいったとのシナリオが最近では 広く語られるようになってきた。

近畿にこの動きが出てくる弥生の終末・古墳時代の始まりまで、近畿で農工具など広く鉄器が実用される状況はどうもなかったようだ。2・3世紀畿内は「幻の鉄」の時代として鉄器が集落内で広く使われたと結論付けることはできず、弥生時代 最大級の鍛冶工房村 五斗長垣内遺跡の位置づけを含め、まだまだ議論のあるところであろう。

    2011.1.30.  近畿の2・3世紀 幻の鉄の時代について
     『とっとり倭人伝 鉄のみち 明石海峡と日本海』」シンポジュウムを聞いて
                                   by   Mutsu Nakanishi


【参考 まとめ pdf file】
 添付まとめ 1 弥生時代 西日本特に日本海沿岸地域を中心とする鉄器 野島永氏「弥生・古墳時代における鉄器文化」 添付まとめ 2 高尾浩司氏「鉄器文化の伝わった道」−とっとりネット「とっとり弥生の王国の謎をさぐる」より-
 添付まとめ 3 弥生時代 近畿の鍛冶工房遺跡・近畿の鉄器出土遺 (五斗長垣内鍛冶工房遺跡を除く)
         「鳥取発! 弥生文化シンポジュウム 『とっとり倭人伝 鉄のみち 明石海峡と日本海』」
              村上恭通氏ほか 討論スライドより  2011.1.30. 
【参考・まとめ資料】 
  1. 【和鉄の道・Iron Road】
     弥生後期から卑弥呼の時代へ ベールを脱いだ「弥生のIron Road 和鉄の道」 2010.11.21. 
 2.   野島永氏「弥生・古墳時代における鉄器文化」  http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=32826
 3.   高尾浩司氏 「鉄器文化の伝わった道」−とっとりネット「とっとり弥生の王国の謎をさぐる」より-
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