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古墳時代  朝鮮半島との交流の玄関口「若狭」を再度訪ねる      2011.8.30. 
脇袋古墳群 など若狭の王墓からの出土品見学 &  若狭小浜港・遠敷(おにゅう)の里 Walk


1.【和鉄の道2008】《再録》卑弥呼の時代からの大陸への玄関口 若狭・北近江
    大陸・朝鮮半島の鉄をもとめて続く若狭・北近江の 「和鉄の道」を訪ねる 2008.9.1.  


  1.朝鮮半島との交流の玄 関口「若狭」と琵琶湖を結ぶ北近江 琵琶湖北岸の饗庭野丘陵地「高島市 熊野本」
 1.2. 大和に前方後円墳が作られ始めた時代に築かれた北の丘「熊野本古墳群」
     饗 庭野丘陵の山上部の東斜面に広がる別荘地の一角 
  南の丘に鍛冶工房が出土した弥生の高地性集落「熊野本遺跡」
  隣接する北の丘の雑木林の中に古墳群 
 案内場から少し登ってゆくと 右側の整備地 古墳群のある場所への道が出てくるが、立入り禁止の 綱が張られている。 
 道が見つからねば、ここから再度登り直すことにして、先へ進むと別荘の家並みのあるY字 路。 
 左手の道は左側南の丘に整備され家が建ち並ぶ別荘地を巡る道。案内板によれば、別荘が建つこの丘 一体が「熊野本遺跡」。 
 右手の道は北の丘との間浅い谷筋をつめる道で、右側の丘にはうっそうとした雑木林が広がり、 
 この中が古墳群の丘陵地でした。
   弥生の向地性集落熊野遺跡がある南の丘(左)と古墳群のある北の丘 (右)との別れ周辺 正面に見えるのが南側の丘
       二つの丘の間の道を登りつめ、右の丘へ回り込むブッシュの中に「熊野本6号墳」と書かれ た立て札が倒れかけで立ち、 
       ブッシュの奥に消えかかった細い道が見える。あおそらくこの古墳を巡る道。ブッシュの中で古墳の状況はよくわからず。

熊野本古墳群が広がる北の丘へ登りつめたところに 熊野本6号墳がありました  2008.9.1.
6号墳 は卑弥呼の時代に作られた前方後方墳で、是非見たかった古墳で、立て札にはその概要が次 のように書かれていた。
 
熊野本6号墳の概要を 示す立看板 
熊野本6号墳
6号墳は全長約28mの前方後 方墳で 標高165mの丘陵上に立地。
この古墳からの見 晴らしは大変良く 平野部や琵琶湖までを一望することができ ましたる。
墳丘は南斜面の幅 を広く築造していることから、
生産基地である平 野部を意識して築造されたと思われる。 
この被葬者の権力 を壮大に見せる工夫と考える。
前方部かは破砕さ れた土器と焼土が出土。
古墳時代前期の湖 西地域の首長の墓と考えられる。ブッシュの中で、古墳そのもの の広がりや形状はよくわからず。
立札前の踏み跡をブッシュの中をかき分けながら北の丘に登ると雑木林の中の幅の細い尾 根筋のこぶの上。 
ここがどうも一番高い所で、高低差で見ると前方後方墳の前方部のようですが、良 くわからない。
目を凝らすと細い尾根筋が 北の方に伸び、東側から明るい日が差し込んでいる。北にも下りながらたどれそう。でこぼこがあちこち林の中に見えるが、古墳なのかどうかは判然としない。 
この古墳も前方後方墳の形は良くわからない。 
尾根筋を北へ少し幅の広くなったおそらく後方部と思われるあたりに降りてゆく。  
林の中ではあるが、東側がオープンになり、木々の間から遠く高島平野から琵琶湖が 見える。
この古墳が作られた時には高島平野から琵琶湖の大パノラマが一望でき、下 からもこの古墳がよく見えたのだろう。
この地が日本海側へ抜ける若狭街道・琵琶湖 の交通の要衝であったことが頷ける。
この地域を支配した首長た ちが、権力の象徴として 若狭街道を行く人たちに自分の権勢を見せ付けた王墓だっ たのだろう。 

卑弥呼の時代に築造 された前方後方墳 この地域の首長墓 熊野本6号墳から眺める琵 琶湖と湖岸平
築 造された当時はもっと展望もよく、湖岸が一望され、また 湖岸からも この古墳がよく見えただろう
大陸・朝鮮半島交易の 玄関口若狭への交易路・鉄の道を眺める絶好の場所である
卑弥 呼の時代に築造された前方後方墳  この地域の首長墓 熊野本6号墳
前方後方墳は卑弥呼の時代 大和に前方後円墳 出雲に四隅突出墳がそれぞれの地域 の首長の墓として築かれてゆく古墳時代の前期にこの近江から東海地域一帯に作られ 始め、日本各地で大和が勢力を伸ばしてゆく過程で、その支配地の首長の墓として築 かれるようになり、次に前方後円墳に置き換わってゆく。 
大 和の王権に遅れて加わった地域首長が築造を許された形だとか 大和王権の中心 勢力 物部氏が地その支配勢力地を広げる過程で築いたとの説もあり、その詳細 は良くわかっていない。 
ただ、大和王権の勢力が巨大化してゆく過程で、大和王権を構成してゆく地域首 長などの墓であることは間違いない。 もし、この6号墳が古墳時代の初期 3世紀前半に築かれたとするとこの重要地 点をにらむ地域首長が早くから存在していたことになる。この熊野本が大陸と大 和を結ぶ「鉄の道」の重要ポイントであることを示す重要な遺跡となろう。 ( 前方後円墳の出現は3世紀末から4世紀初頭 東海からとする説も有力 であり、この6号墳の年代については
       どうも 確定されていないようだ。)
このまま尾根筋を下れば、この地が開発された時に作られた道に出られそう ですが、道のないちょっと荒れ果てた状況の中では先へよう行けず。古墳分 布図があった入り口まで引き返し、立ち入り禁止の綱が張られたところから この北の丘一帯に入りなおした。
熊野本古墳群が広がる北 の丘 道路が整備され 開発が放棄された今は道も雑草に  2008.9.1.

道はアスファルト舗装 された道がまっすぐ奥へ伸びているのですが、アスファルト破れ、道の真ん中に も雑草が覆い始めている。道の両側の林も全く手入れされた形跡もなく、あれる に任せたままで、うっそうとしたブッシュと雑木の森が覆っている。自然の森よ りももっと厳しくて、この森の中へ入り込む勇気がわかない。 
この森の中の尾根筋に分布している古墳をさがそうと道路脇から林の中に入り込 む道探すのですが、良くわからず。 
30分ほど、道路から森の中を覗き込んだり、少し入ってみたりと舗装道路をぐ るっと一周しました。 
造成地が破棄されてしまうと、その中を通り抜ける道もなく凄いことになること を実感しました。
熊野古墳群が分布する北 の丘 前方後円墳があるあたり  2008.9.1
踏跡を見つけて、ブッ シュの中に入り、踏み跡を頼りにこんもり盛り上がった場所を探す。 いくつもそんな場所があるのですが、古墳であるかどうか確かでない。  この辺りに 大きな円墳 前方後円墳がある辺りなのですが、結局良くわからず に出てきました。 元の道を引き返して、入り口に下ってゆくとこの森の向こうに琵琶湖と高島平野 がひろがっさていました。

 
熊野本6号墳の概要を示 す立看板 

元の案内板のとこ ろまで戻り、熊野本古墳群の前に
南 の丘の別荘地の中へ登りなおし、
鍛 冶工房が一緒に出土した弥生の高地性集落を探しに行 く

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