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西播磨 歴史の町に春を訪ねる  
西播磨綾部山梅林と江戸の町並みが残る坂越港 

● 参考 綾部山39号墳の概要  綾部山39号墳の現在  1004wharimare01.htm
                           海岸沿いの綾部山の尾根筋を登る道の下になっている  
                           綾部山39号墳現地説明会資料2003年3月22日 御津町教育委員会 & 現地案内板より
                     http://www.gensetsu.com/03ayabe39/doc1.htmを整理

墳形は円形を意識した多角形で墳丘の裾部に列石を巡らし、南北約15m以上、東西10m、高さ約1.7m。中心部の埋葬施設は箱形木棺を竪穴式石槨
で覆い、その周囲を河原石を積んで囲む特徴的な形態を示す。竪穴式石槨は割石小口積みで壁体をほぼ垂直に積むもので、木蓋と推定。この石槨部
の石囲い施設は庄内式併行期に讃岐や阿波地域で発達したもので、古墳出現期の徳島県西山谷2号墳(黒谷川式)の墓壙の「積み石」などにその影
響がその影響が認められます。
● 墳丘の形状
境丘にはハッキリとした高まりがなく、直径10〜11mのいびつな円形状の列石(20センチ程度の川原石と割石)が外側をまわっていて、これが墳丘の裾(すそ)。また、墳丘を築造するための盛土は、最高でも厚さ10センチ程度で、列石のところでその盛土はなくなるようである。墳丘の盛上の大きさや墳形にはあまりこだわらず、ハッキリとした区画をしない弥生時代の墳丘墓の要素を強くもっているといえる。
もう一つ、忘れてはならない重要なことは、現在の道路部分である北西
側に、突出部(前方部?)をもつ可能生があり、前方後円形になる可能性が考えられる。
埋葬主体部
東西4.6m、南北3.5mの石で囲まれた隅丸方形をしている埋葬主体部は『石囲い(石塁壁)・竪穴式石榔・木棺』の3重の構造で、『最古の古墳』として有名な奈良桜井市の『ホケノ山古墳』(3世紀中頃)と類似。
『ホケノ山古墳』の構造は『石囲い・木榔・木棺』になっており、石榔と木榔とが違うだけで、この遺跡と非常に似た構造になっている。『ホケノ山古墳』の『石囲い木榔』構造に対して、綾部山39号墳(墳丘墓)は『石囲い石榔』と言え、このような3重構造は、兵庫県で初めての発見で、岡山県でもまだ見つかっていない。
『竪穴式石榔』を石で囲む遺構を『石囲い』または『石囲い』はほとんどが川原石で、長軸を中心部方向に向けて、石をもたせかけるように丁寧に整然と積んである。やや外側に傾斜して構築しているために、石榔との間に出来るスペースには、川原石を詰めている。『石囲い』という構造は瀬戸内海沿岸各地などで、弥生時代後期から古墳時代初めにかけての墳丘墓や古墳に見られる特有のもので、四国の阿讃地方(阿波・讃岐)で発達したものと考えられており、綾部山39号墳(墳墓)はその文化を取り入れたものである。
● 竪穴式石槨
『石囲い(石塁壁)で使用されている石はほとんどが川原石であるが、竪穴式石槨に使用されている石は角が取れた板石。右榔内側の規模は、長さ
約255cm・東小口幅95cm・西小口幅90cm・板石6段積みと考えて深さ約70cm。側壁の断面形状はほぼ真っ直ぐに立ち上がる状態でどちらかといえば外に少し広かっているようにも見え、弥生時代の竪穴式石室(榔)の特徴をもっている。
● 木棺
石榔床面には2センチ〜8センチの小円礫が敷かれている。礫床が平になっていることから、棺は箱形木棺と考えられ、木棺のあった場所には朱が付
着し、痕跡から棺の大きさは長さ約190cm・東小口幅約80cm・西小口幅杓76cm。東側が幅の広いことや、副葬品の位置から考えると頭位は東向きに葬られていたと推察できる。
● 副葬品
副葬品として鏡・鉄製品・砥石が出土。被葬者の頭部右横付近には『舶載鏡』と思われる割れた鏡がボロボロの状態で2片出土。この鏡の種類は『画文帯神獣鏡』と思われる。直径は10.4cmで『ホケノ山古墳』など、ほかの遺跡の出土例と比べても、かなり小型。
また『画文帯神獣鏡』は権現山51号墳で出土した三角縁神獣鏡よりも、古い時代の鏡と言われている。鉄製品は棺内の被葬者左足付近に長さ17cmのものが1点見つかっている。この鉄製品はヤリガンナかモリ・ヤスの可能性。次に砥石があります。棺外の頭上部に置かれてあった。
  
       画文帯神獣鏡                 砥石                    鉄製品
                                 副葬品 出土状況
● 上部構造
石槨の上部構造を推察すると、今回の調査で天井石にできる大きさの石が1枚も出てきていないこともあり、木蓋であったと考えられている。
また、その上部には小さな円礫を敷いてつくった『隆起小円礫堆』か゜あったものと思われる。 コンテナ約20箱分という大量の小円礫が出ている
からで、中には朱が付いている円礫が見つかっており、上面を粘っていたと考えられる。
また、この土中から讃岐系の土器片1点と在地の土器片2点が出土。播磨地方の特徴ですが、葬送儀礼に讃岐地方から運ばれてきた土器が使われていたことは注目に値します。綾部山39号墳(墳墓)は3世紀、『邪馬台国の卑弥呼』の時代のもの。この遺跡の被葬者は、西隣の吉備地方と連合するのではなく、海を隔てた、阿讃地方と連合していたと考えられる。〔阿讃播連合〕。
この時代吉備では、特殊器台・特殊壷という土器をお供えしてお祭りをしていますが、播磨の墳丘墓からは吉備の土器が出土しないことや阿波・讃
岐で考え出され発達していったものと考えられる『石囲い』を採用している。 本墳から讃岐の土で作られた土器が出土し、これは葬式に讃岐からはるばる海を渡って土器を持ってお参りに釆たと考えられること。
また、この遺跡は限りなく、弥生時代の墳丘墓の作り方によって造られています。ホケノ山古墳の影響を受けて造られたのか!それとも逆に影響を
与えた墳丘墓か!つまり言い換えると限りなく弥生の要素を備える古墳か!それとも、弥生時代最後の墳丘墓か!時代の境目に位置するとても貴重な数少ない遺跡である。

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  この項 綾部山39号墳現地説明会資料 2003年3月22日 御津町教育委員会を整理 http://www.gensetsu.com/03ayabe39/doc1.htm


 
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1004wharimare01.htm  2010.4.5.  by Mutsu Nakanishi