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     7. 東近江 永源寺相谷熊原縄文遺跡 Walk 
         縄文のビーナス誕生を思わせる日本最古級の美しい土偶が出土
    2. 永源寺相谷遺跡 縄文草創期の竪穴式住居跡群の見学

                  〔記事の中の竪穴式住居図面は現地説明会資料より転載〕
13000年前の縄文草創期の竪穴式住居跡が出土した場所で現地説明が始まった。
この場所は愛知川(写真正面)が西から東へ流れ下る河岸段丘の上で南北に伸びる小さな尾根筋の斜面に沿う場所で斜面を背に13000年前の草創期の竪穴式住居群(5棟)が立ち並んで出土。この場所で4棟 少し上のところで土偶が見つかった竪穴式住居1棟 あわせて5棟の竪穴式住居が見つかった。しかも これらの竪穴式住居は直径が8mほどの大型でほぼ同時代縄文草創期のもので建ち並んで出土したという。また住居の竪穴は深さ約1mと深くこれは縄文草創期の寒冷な気候を反映したもので、住居内にはいずれも炉はないという。
 愛知川(写真正面)が東から西へ流れ下る河岸段丘の上に13000年前の草創期の竪穴式住居群(5棟)が出土。
 まだ 定住が安定化しないと考えられていた13000年前の縄文草創期
 想像とはかけ離れた直径8m ・寒さを避けるための深さ1mにも及ぶ大型竪穴住居がほぼ同時期に5棟隣接立ち並ぶ。
 縄文草創期にすでに村が形成????  定住の始まりか・・・
 また、縄文草創期の気候の寒冷化を反映した約1mの深い竪穴を関西で見るのは初めて
 
        2号竪穴住居跡(手前)より 北へ
        縄文草創期の竪穴式住居跡群が並ぶ 
5号竪穴住居跡(手前)より 南へ縄文草創期の竪穴式住居跡群が並ぶ
    写真中央 テントの右 樹木がみえる一段上がったところが 
          土偶が出土した1号竪穴住居跡の位置
一般に縄文人が定住をはじめるのは縄文早期といわれ、縄文草創期にはまだ 渡り歩く生活が主と考えられてきた。
発掘された竪穴式住居跡に立つと本当にびっくり。「これが13000年前 まだ森を渡り歩く生活が主である時代の住居あとか・・」と。
出土した住居跡はほぼ同時代の住居跡群だということにもびっくり。
整然と大きな本格的な竪穴式住居が5棟も建ち並んでいたとなるとこれはもう村の出現と言えるのではないか・・・
しかも 竪穴は深く 大型の住居である。 
限られた道具しかない時代に この住居群を作るには多くの人たちの共同が必要だったろう。
ここでは もう定住の共同生活が始まっていたのではないか・・・・
出土したすばらしい土偶ばかりに頭が行っていたが、縄文草創期の村の出現。 
それもあまり有名な縄文遺跡のない関西に に。 本当にびっくりである。
    . ● この住居跡はどこまで ひろがっていたのだろうか・・・・
  この発掘地の西側には広大な台地が西へ広がっているが この台地の下にも縄文遺跡が眠っているのだろうか
● この河岸段丘の南西の端の森からは縄文晩期の土器棺墓も30基 昨年末に発見されたというが、
  この河岸段丘では縄文草創期からずっと住み継がれてきたのだろうか・・・          」
● また 最古級の土偶は鈴鹿の山並を越えた三重でも発見されている。
  この愛知川が流れ下る八風街道の鈴鹿越は太古からの交流の道だったのだろうか・・・
今までの縄文草創期のイメージからは大きく進化している遺跡をどのように受け止めたらいいのか 夢が次々と広がってゆく。 
まだ 半信半疑であるが、住居跡に沿う道をあっちへ行ったりこっちへ行ったり往復しながらこの住居跡を見る。
来るときは そこまで考えていなかったのですが、
「すぐに 埋め戻されてしまう」と聞いて むしろ景色が見たくてやってきたのですが、「来てよかった」と。
 
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【出土した縄文草創期の竪穴式住居の平面図・立面図】
 〔竪穴式住居図面は現地説明会資料より転載〕

a.最古級の土偶が出土した1号竪穴式住居跡  13000年前 縄文草創期
               現在すでに埋め戻され、圃場整備が進む1号竪穴住居跡周辺 

土偶が出土した1号竪穴住居跡 
13000年前 縄文草創期の土偶は取り除いた住居跡地の土の中から見つかったので 正確な住居内の位置はわからない

b.2号竪穴式住居〜5号竪穴式住居  竪穴住居が隣接して建ち並ぶ 村の始まりか・・・・


縄文草創期に直径の大きい大型の竪穴住居が建ち並んでいたとは驚き すでに村を作っていた????
また、従来 縄文草創期 竪穴住居の大きさは直径5m程度と考えられて来たのに対し、
この永源寺相谷熊原遺跡では直径約8mと大型でしかも予想以上に深い竪穴 が彫られ、
道具がないこの時期 未定住の住居とは考えられないきっちりとした竪穴住居群である。
未定住から 定住への以降が始まったのだろうか・・・・・
そんな時期の素晴らしいリアルな女性像を表現した土偶の出土。 この土偶と定住化との関係も興味深い。
なお、この縄文草創期の竪穴住居群からは土器・石器・土偶が出土。

土器は爪形文土器と無紋土器で縄文早期始まりの指標とされる押型文土器がまじっていないとの特徴を有している。
このため、土器からの年代比定が困難だったが、竪穴住居1・4・5から出土した土器片に付着した炭化物の放射線年代測定(加速器質量分析法 AMS法)ですべての土器検体について 約13000年との数値が出て、縄文草創期の住居跡と判断していると言う。

縄文草創期の竪穴住居群からの出土遺物と年代測定


年代測定に使われた竪穴住居1・4・5内出土の土器片と出土石器の一例
現地事務所での出土遺物展示より
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1007aidani02.htm   2010.7.5. by Mutsu Nakanishi