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From Kobe   4月  思いつくまま
      1.   3月23日 イースター・復活日に

    2.  卑弥呼の時代 「大和への鉄の道」のルートは 淀川・大和川・紀ノ川 ????
    . 
        弥生時代の終わり 古墳時代の幕開け 
         やつぱり 大和川が最有力か・・・ 畿内に現れる庄内式土器が語る卑弥呼の重要路


 
1.3月23日 イースター・復活日に 
 
今年はイースターが3月23日 いつもより早かった。 
イースターがくると春であるが、この時期 クリスチャンは キリストの受難に思いをはせ、自分の生き方や周囲の人たちに目を向けて祈る。  

先日 友人からメールで 今年はうるう年で2月は29日があったが、
使っている日課表の月29日の項に「わたしたちが愛さない人のためにいのる日」とあるという。 
自分の敵なる人の為には4年に1回祈ればいいのだろうか・・・・・という。 

昨年8月の広島の平和行進に参加した時 ある神父さんが、
「今の日本では、週末になると『ちょっと平和を』 ですね」と。
ガンと頭をたたかれた思いをしたことを思い出しました。

「酒と泪と男と女」「野風僧」など亡くなった河島英吾のフレーズが好きなのですが、
その娘さんたちが奈良の街でやっておられる静かな喫茶店があると聞いていて、一度行ってみたかったのですが、
3月8日探し当てていってきました。
その喫茶店の壁に下の写真のような河島英吾の絵とフレイズが飾られていました。 
   
暖かい輪の集いに縄文のストーンサークルを重ねながら、現在の世相をあれやこれや・・・ 
元気をもらって帰ってきました。 
.
また、4月は新しい出発の時でもあります。 
地球人 みんなに思いをはせ 「主の平和 」と祈りますが、
みんなが お互いを生かしあう知恵を神剣に出し合わねば・・・ 
ことしのイースターの時期の思いです。 

                                                     2008.3.23. by Mutsu Nakanishi 
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2.卑弥呼の時代 「大和への鉄の道」のルートは 淀川・大和川・紀ノ川 ????
  弥生時代の終わり 古墳時代の幕開け
   やつぱり 大和川が最有力か・・・ 畿内に現れる庄内式土器が語る卑弥呼の重要路

3月22日姫路で「倭国連合の成立と姫路地域の役割」のシンポジュームがあった。 
弥生時代の終わり 古墳時代の幕開けを告げる3世紀 卑弥呼の時代の播磨の役割を告げるシンポジュームである。 
私の一番の興味はこの卑弥呼の時代朝鮮半島の「鉄」を西日本瀬戸内から大和へ持ち込む鉄の道のルートはどこか??? 
卑弥呼の時代の後 九州に対抗した吉備・出雲・東海そして河内・大和の勢力など西日本の諸国が連合を組んで、初期大和政権が誕生したという。 
この連合の絆は朝鮮半島の鉄素材の供給ルートの支配だったといわれる。 
.
この朝鮮半島の「鉄」を西日本瀬戸内から大和へ持ち込む鉄の道のルートはどこなんだろうか??? 
.
日本にはまだ 馬が居なかった時代 淀川・大和川・紀ノ川の3本の川の流域が考えられ、それぞれの川から大和へ入る周辺には後年 それぞれ渡来の鍛冶集団と関係深い専用の鍛冶工房が現れる。 
.
その先駆けとなった卑弥呼の時代の主要道はどこだったのだろうか? 
.
昨年の春 この3つの川沿いを大和へ至る古代の道をWalk。
瀬戸内・大阪湾から 距離的には大和川を遡る 一番短いのですが、 
大和川には河内と大和の境 生駒山山地と葛城・金剛山地の切れ目から流れ出すところに亀の瀬の急流があり、隔てる谷の両側には険しい龍田山と二上・葛城山がそびえる。 
また、淀川や紀ノ川からは険しくはないが道のりが遠い。 
この疑問に答えてくれる話が聞けるかもしれないと出掛けました。
この疑問に答えてくれた土器の話。 
卑弥呼の時代に先駆けた弥生の終わり、畿内に吉備などの特徴を併せ持つ新しい土器 庄内式土器(叩きの技法がうけつがれ、左斜めの櫛模様 内側が削られ、平底から尖がり底へ)が現れた
それが河内の中心部や大和に現れ、古墳時代の初期には布留式土器と呼ばれるハケで化粧された形のきれいな丸型の土器に変わってゆく。 
この新しい土器の動きを見れば、時代が見えてくるという。 

畿内でのこの庄内式土器の出現地ををたどると 
大和川流域河内の中心部がいち早く淀川流域の北河内(枚方・交野)や紀ノ川水系と考えられる葛城で現れるのは遅れるという。 
この庄内式土器・布留式土器の動きを見るとやっぱり、大和への道は大和川遡行がメインか?
古代大和は要塞の地とよく言われるが、この大和川遡行・龍田山越の鉄の道を開いたことが、大和王権確立のポイントかもしれない。

ついでながら、吉備と大和の中間点の重要ポイントにある播磨に庄内式土器が現れるのはづっと後。
また、讃岐とこの吉備・播磨の交流を土器で見ると讃岐から吉備・播磨には多くの人が動いているのに播磨から讃岐へは人が動いていない一方通行という。

瀬戸内の鉄の道が当時の中央・メイン道路であることがよく見え、
現在の地方過疎化の波が古墳時代の始まりの頃にもあったと思えて面白い。 

 


大和における庄内型甕の分布動態と弥生拠点集落
  青木勘時「大和からみた播磨 -播磨における庄内式土器の意義」より

縄文土器の面白さ・美しさには惹かれますが、弥生の土器なんて みな同じように見えて 面白さも判りませんでしたが、すばらしい土器編年の魅力。 ちょっと土器の見る目にひとつ加わったような気がしています。 
おもしろいシンポジュームでした。 

参考資料
  シンポジューム「倭国連合の成立と姫路地域の役割」講演資料
    青木勘時「大和からみた播磨 -播磨における庄内式土器の意義」
 

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1. 3月23日 イースター・復活日に 
 
今年はイースターが3月23日 いつもより早かった。 
イースターがくると春であるが、この時期 クリスチャンは キリストの受難に思いをはせ、自分の生き方や周囲の人たちに目を向けて祈る。  
先日 友人からメールで 今年はうるう年で2月は29日があったが、使っている日課表の月29日の項に「わたしたちが愛さない人のためにいのる日」とあるという。 
自分の敵なる人の為には4年に1回祈ればいいのだろうか・・・・・という。 

昨年8月の広島の平和行進に参加した時 ある神父さんが、「今の日本では、週末になると『ちょっと平和を』 ですね」と。 
ガンと頭をたたかれた思いをしたことを思い出しました。

 「酒と泪と男と女」「野風僧」など亡くなった河島英吾のフレーズが好きなのですが、その娘さんたちが奈良の街でやっておられる静かな喫茶店があると聞いていて、一度行ってみたかったのですが、3月8日探し当てていってきました。 
その喫茶店の壁に下の写真のような河島英吾の絵とフレイズが飾られていました。 
   
暖かい輪の集いに縄文のストーンサークルを重ねながら、現在の世相をあれやこれや・・・ 
元気をもらって帰ってきました。 
また、4月は新しい出発の時でもあります。 
地球人 みんなに思いをはせ 「主の平和 」と祈りますが、みんなが お互いを生かしあう知恵を神剣に出し合わねば・・・ 
ことしのイースターの時期の思いです。 

                                                     2008.3.23. by Mutsu Nakanishi 
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2. 卑弥呼の時代 「大和への鉄の道」のルートは 淀川・大和川・紀ノ川 ????
    弥生時代の終わり 古墳時代の幕開け
   やつぱり 大和川が最有力か・・・ 畿内に現れる庄内式土器が語る卑弥呼の重要路

3月22日姫路で「倭国連合の成立と姫路地域の役割」のシンポジュームがあった。 
弥生時代の終わり 古墳時代の幕開けを告げる3世紀 卑弥呼の時代の播磨の役割を告げるシンポジュームである。 
私の一番の興味はこの卑弥呼の時代朝鮮半島の「鉄」を西日本瀬戸内から大和へ持ち込む鉄の道のルートはどこか??? 
卑弥呼の時代の後 九州に対抗した吉備・出雲・東海そして河内・大和の勢力など西日本の諸国が連合を組んで、初期大和政権が誕生したという。 この連合の絆は朝鮮半島の鉄素材の供給ルートの支配だったといわれる。 
  この朝鮮半島の「鉄」を西日本瀬戸内から大和へ持ち込む鉄の道のルートはどこなんだろうか??? 
日本にはまだ 馬が居なかった時代 淀川・大和川・紀ノ川の3本の川の流域が考えられ、それぞれの川から大和へ入る周辺には後年 それぞれ渡来の鍛冶集団と関係深い専用の鍛冶工房が現れる。 
その先駆けとなった卑弥呼の時代の主要道はどこだったのだろうか? 
昨年の春 この3つの川沿いを大和へ至る古代の道をWalk。瀬戸内・大阪湾から 距離的には大和川を遡る 一番短いのですが、 
大和川には河内と大和の境 生駒山山地と葛城・金剛山地の切れ目から流れ出すところに亀の瀬の急流があり、隔てる谷の両側には険しい龍田山と二上・葛城山がそびえる。 また、淀川や紀ノ川からは険しくはないが道のりが遠い。 
この疑問に答えてくれる話が聞けるかもしれないと出掛けました。
この疑問に答えてくれた土器の話。 
卑弥呼の時代に先駆けた弥生の終わり、畿内に吉備などの特徴を併せ持つ新しい土器 庄内式土器(叩きの技法がうけつがれ、左斜めの櫛模様 内側が削られ、平底から尖がり底へ)が現れ、それが河内の中心部や大和に現れ、古墳時代の初期にはそれが 布留式土器と呼ばれるハケで化粧された形のきれいな丸型の土器に変わってゆく。 この新しい土器の動きを見れば、時代が見えてくるという。 
畿内でのこの庄内式土器の出現地ををたどると 大和川流域河内の中心部がいち早く 淀川流域の北河内(枚方・交野)や紀ノ川水系と考えられる葛城で現れるのは遅れるという。 

この庄内式土器・布留式土器の動きを見るとやっぱり、大和への道は大和川遡行がメインか 
古代大和は要塞の地とよく言われるが、この大和川遡行・龍田山越の鉄の道を開いたことが、大和王権確立のポイントかもしれない。

ついでながら、吉備と大和の中間点の重要ポイントにある播磨に庄内式土器が現れるのはづっと後。また、讃岐とこの吉備・播磨の交流を土器で見ると讃岐から吉備・播磨には多くの人が動いているのに播磨から讃岐へは人が動いていない一方通行という。 
瀬戸内の鉄の道が当時の中央・メイン道路であることが、よく見え、現在の地方過疎化の波が古墳時代の始まりの頃にもあったと00思えて面白い。 

 


大和における庄内型甕の分布動態と弥生拠点集落
  青木勘時「大和からみた播磨 -播磨における庄内式土器の意義」より

縄文土器の面白さ・美しさには惹かれますが、弥生の土器なんて みな同じように見えて 面白さも判りませんでしたが、すばらしい土器編年の魅力。 ちょっと土器の見る目にひとつ加わったような気がしています。 
おもしろいシンポジュームでした。 

参考資料
  シンポジューム「倭国連合の成立と姫路地域の役割」講演資料
    青木勘時「大和からみた播磨 -播磨における庄内式土器の意義」
 

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