home page top
新着monthly page2020
 
和鉄の道2020
風来坊2020
四季折々・from Kobe
和鉄の道 file DOCK
全ファイル収蔵庫 top
...
 

青森・八戸 縄文の郷 「是川」   2008.10.30.

13. 縄文文化を代表する是川遺跡・風張遺跡を訪ねる
● 縄文漆の素晴らしい文化を咲かせた縄文晩期の是川中居遺跡
.
● 墓域のある広場を環状に取り囲む住居群 縄文後期の環状集集落 風張遺跡
2008.12.15.  by Mutsu Nakanishi

3. 中居遺跡から一王寺遺跡を通って記念碑へ      korekawa03.htm
中居遺跡の南側に沿って傾斜地を西に登って遺跡全体を見晴らせる記念碑の高台へ
 
  縄文の里 「是川」 全景図  internet 航空写真より  ↑北
 
前庭南東端
建物前の前庭 中央部
建物前の前庭 中央部 
中土居遺跡の中央部 地下に泥炭層が広がる 建物の前庭広場 かつての湿地と高台との境の周辺
この歴史資料館に飾ってある遺物はみんなほんものだよ。
  それも 国宝・重要文化財に指定されているものや それに等しいものばかり。
こんなに近くでみられるのはここだけよ。 よく 見て帰ってね

案内のボランティアが本当に誇らしげに 館内の小学生たちを案内している。本当ににそうだと思いました。
満足感いっぱいで、遺跡の前庭に出る。
この前庭全体がなだらかな傾斜に綺麗に整地されてよく分からないが、この前庭の東部分の地下は泥炭層が広がる新井田川の元湿地で、もっと起伏があったろう。ここで暮らした縄文人たちは この湿地に降りて、川へでたのであろう。
また、建物に近い部分には、弥生前期の土坑墓や土器棺墓の調査地点、こちら側に集落が広がっていたのだろう。

縄文学習館で教えてもらったとおり、入口まで戻って遺跡の南端の垣に沿って、傾斜地を登って高台から是川の里を眺めにゆく。広い草地かが広がる遺跡の南端中央部 大量の漆遺物の出たところを見て、さらに傾斜地を登って 是川遺跡の一部一王寺遺跡を通って、遺跡全体が見渡せると言う記念碑へ登る。
遺跡の生垣に沿って南角から西へ集落の中を傾斜地の上へ登る道に入る。 少し、登ると道が折れ曲がって、真っ直ぐ西への道である。生垣の内側に広い草地が見え、その奥に考古館の白い建物も見える。
この草地の手前は縄文の頃には浅い沢になっていて、中居遺跡の集落のゴミ捨て場で大量の漆遺物や土器が出た場所だと聞く。写真では傾斜がよく見えないが、写真上部 北側にもかなりの傾斜である。
もっと起伏があったのだろうが きれいに埋め戻されて整地されていて、ここに沢があったようには見えない。
.

この草地の下に 大量の漆遺物などを出土した沢が埋まっている
中居遺跡の南端側 西から北東(写真の中央方向)に傾斜した草地  2008.10.30.
草地にはいると、ふわふわで、草が敷き詰められたような感じである。
また、上記草地の写真のすぐ西に畑状の地があり、ここは足を踏み入れるとぬかるんでいて、靴が沈み込んでゆく。 
いずれも 発掘調査により掘り返された場所と思われるので縄文時代から続く泥炭層が顔を出しているとは思えないが、
草地全体がやわらかく泥炭地の名残かも知れない。元の道にもどり、さらに西へ傾斜地のどんつきまで、登ってゆく。
.
中居遺跡の南端の生垣に沿って 真っ直ぐ西の丘陵地へ上る道  2008.10.30.
この道の一番高いところの高台が是川遺跡全体を見下ろせる展望台高台。そこに是川遺跡記念碑が建っている。
 
中居遺跡の西南の端角に是川遺跡記念碑の案内標識があり、
それを過ぎると見渡す限り畑の田園地帯のまっただ中。
広い丘陵地全体が畑に切り開かれているのが見え、
真っ直ぐ正面の丘陵の上に向かって道が続いている。 
この道の両側の畑の中に是川一王寺遺跡が眠っている。

まもなく 道の際に小さな杭が立っていて、其処に一王寺遺
跡と書かれていて、この周辺にも遺跡が眠っていると知れる。

縄文前期から中期の遺跡で、平底バケツ型の土器が沢山出土し、
それがきっかけとなって、円筒土器の名前がつけられた経緯が
ある。

あまり登ったとは思えないのですが、
振り返ると畑の向こう一番下下に中居遺跡の森や南北に流れる
新井田川 そして 川に沿って対岸を走る丘陵地が見えている。 
のどかな田園風景が広がっている。
是川一王寺遺跡出土の円筒土器

丘陵地を登る道を登りながら 南東方向    高台の一番高い所 是川遺跡 記念碑前より一王寺遺跡を見下ろす 
        縄文前期-中期の是川一王寺遺跡周辺 それを示す杭が道端にあるのみで田園風景が広がる
 
西側に伸びる傾斜地 一番奥の高台 是川遺跡全体を見下ろす丘の上に展望台、
是川遺跡記念碑があり、ここからは 是川遺跡を真ん中に広がる是川の里の素晴らしい田園風景が見渡せました。
      
 是川遺跡記念碑

一王寺遺跡からもう少し登り、開墾された田畑地帯と丘陵地の森の境のところに教えてもらった展望台が整備されている。
其処に大正時代始めてこの是川遺跡をみつけ、発掘・保存を精力的に進めた泉山翁の顕彰と是川遺跡の意義を書き記した
是川遺跡記念碑があリました。
ここからは 今登ってきたゆるやかな傾斜地に広がる田園地帯を前景に是川の里とその背後の新井田川と丘陵地が緑の帯となって東西に伸びている。 さらにその奥遠くにただ一線で八戸の市街地そして右端に種市岳がポツンと浮いている。
高度が低いので 海は見えないが 山の向こうには遠く太平洋が広がっている。 

舗装道路や自動車やコンクリートの大きな建物など邪魔するものが全く無いのどかな田園風景がいい。

是川中居遺跡の森の背後の丘陵地の中に青い屋根が見えるのが 縄文中期の合掌土偶が出土し、
環状の大集落が営まれていた風張遺跡の上に建つ老人施設長生園。新井田川を挟んで直ぐの丘陵地との上である。
素晴らしい是川の里の田園風景です。

是川遺跡の西の丘から眺める素晴らい是川の里の大展望 2008.10.30. 

縄文人もこの素晴らしい田園景色を見たのだろうか・・・
今 田園が広がるこの丘陵のスロープも緑の森が埋め尽くし、
ランドマークとして 種市岳がぽっかり浮いていただろう。
ここでも やっぱり 縄文人は素晴らしい風景の森に集落を営んでいる。

右手奥に遠望されるのが種市岳 おそらく是川にすむ縄文人たちのランドマークだったろう
是川遺跡 記念碑前から縄文の里「是川」遠望   2008.10.30.
縄文人もこんな景色を見たのだろうか・・・・  
 
縄文中期の是川掘田遺跡と晩期の是川中居遺跡が新井田川そばの川岸の台地にあり、
この川を挟んで、両側の丘の上に縄文後期の風張遺跡と中期是川一王時遺跡がある。 
長きに渡って 縄文人が住みつないできた是川の里である。

縄文中期温暖な気候の中で、森の恵みに重きをおいた生活をしていた縄文人がその後の寒冷化によって、
生活の主体を川・海への依存を深めて、川岸へ降りていったのか・・・・  
あれやこれや 思いを巡らす。
 

是川中居遺跡からは弥生前期の遠賀川式土器も出土しており、新井田川から海へ 
周囲を丘に囲まれたこの是川から新井田川を伝って 外との交流が見て取れる。
  
眼前に広がる縄文の里「是川」と地図を見比べながら、小一時 縄文に思いを馳せながら、
しばらく勝手な空想を楽しみました。

 
     《参考》縄文文化を代表する是川遺跡・風張遺跡を訪ねる 是川の里 全体図

    左手奥 八戸の中心街から太平洋 中央を馬渕川が流れその向こう丘陵地に是川遺跡 そして右手奥 種市岳  
↑南 ↑南 
    是川遺跡の中心部 中居遺跡を遺跡の東を南北に伸びる丘の上から眺める     ここに是川遺跡の中心施設 縄文館・資料館がある  

 

 先頭に戻る
|< 先頭頁  << 前頁<  korekawa03.htm >次頁 >> 最終頁
..
.
home page top
新着monthly page2020
 
和鉄の道2020
風来坊2020
四季折々・from Kobe
和鉄の道 file DOCK
全ファイル収蔵庫 top
..
korekawa03.htm    2008.12.15.   by  Mutsu  Nakanishi