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青森・八戸 縄文の郷 「是川」   2008.10.30.

13. 縄文文化を代表する是川遺跡・風張遺跡を訪ねる
● 縄文漆の素晴らしい文化を咲かせた縄文晩期の是川中居遺跡
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● 墓域のある広場を環状に取り囲む住居群 縄文後期の環状集集落 風張遺跡
2008.12.15.  by Mutsu Nakanishi
左手奥 八戸の中心街から太平洋 中央を馬渕川が流れその向こう丘陵地に是川遺跡 そして右手奥 種市岳

      2. 是川の里 是川縄文学習館 展示見学抜粋    korekawa02.htm

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                             是川中居遺跡が眠る縄文学習館前の園地   2008.10.30.
入口から奥へなだらかな登りの小道が延び、その両側に紅葉した木々が立ち並ぶ林に整備された前庭が広がっている。右側の林野中に 思いがけず、川を挟んで向いの丘陵地にある縄文中期の大集落風張遺跡の竪穴住居が復元されていた。円形の珍しい形の竪穴住居が復元されていました。 
この園地一帯から数々の漆遺物が出土した地点があるはずなのですが、今は園地に整備されてよく分からない。
まずは、この中にある縄文学習館に行って、色々教えてもらおう。
この奥へ50mほど行った所に校倉造を模したコンクリートでできた白色の歴史資料館と円形の形をした縄文学習館が建っていた。
まだ、8時30分過ぎ 開館されていないだろうと思いながら、縄文館へ行くと「どうぞ どうぞ」と歓迎で入れてもらえた。一番先に眼に入ったのは、エントランス正面の壁全面に風張遺跡の発掘された竪穴住居群が跡がそのまま写真プリントされている。
是川遺跡の数々の漆遺物と共に一番見たかった環状集落住居群の発掘時の写真である。
以前 資料で見た配置図は不鮮明で半信半疑。 ぜひとも今回は見たかった写真である
縄文学習館エントランスに風張遺跡の発掘住居群遺構のパネルと出土した合掌土偶が飾られている
縄文の心を映すといわれる円環・サークル そんな中で 先祖が眠る墓域がある広場を真ん中にそれをぐるりと取り囲んで住居が建ち並ぶ環状集落 心優しい縄文人の精神生活をよく表していて、「心優しき日本人の心のルーツ」でもある。
中央部白線で囲まれた場所が墓域2ケ所)で それを取り囲んで竪穴住居群が建ち並ぶ 
縄文館エントランスにある風張遺跡全景パネル  2008.10.30.
白く囲まれたところが墓孔で南北に2ケ所あり、それを掘っ立て柱建物が取り囲み、
その外を竪穴住居が取り囲んでいる。縄文中期の環状の大集落である。この風張遺跡では竪穴住居は円形である。
復元された案内板には住居の縁に円形の孔が取り囲んでおり、円形だったと記されていましたが、
本当に円形なのである。発掘された住居跡がこんなにきれいに円形で発掘されているのを見るのも初めて。

「中央部白線で囲まれた場所が墓域(2ケ所)で それを取り囲んで竪穴住居群が建ち並んでいる」と聞く。
説明していただいて おぼろげながら環状のように思うがこの写真ではよく分からない。
また、この風張遺跡の発掘跡の写真は縄文中期から弥生の時代までの住居跡が混じっているので、
その取り除き作業など、風張遺跡の報告書取りまとめ中だと教えていただいた。
右に示した発掘時の遺構配置図の欠かれた資料を重ね合わせて 環状であることが理解できる。

「風張遺跡は川を挟んで直ぐ向こう。でも もう今は長生園の老人ホームが建っていて、環状の住居跡は見られない」と。
 もう 環状の集落跡は埋め戻されているだろうとは思っていましたが、「ええ やっぱり・・・」と。 
 でも しっかりした環状の住居跡群発掘図をもらえ、直ぐ向かいの丘へ登れることが分かったので満足。
 ひとしきり、風張遺跡や是川遺跡の発掘などの話を色々教えてもらって、是川遺跡・風張遺跡のアウトラインが頭にはいった。
 ちょつと是川遺跡や風張遺跡の距離感と道の状況がわからず、それもあって 朝早く飛び出してきたのですが、
 風張遺跡や是川3遺跡の位置関係もわかった。 
 これだったら、頭にあった午後一戸の御所野遺跡に行って 盛岡まで出られそうだ。
 この縄文館・考古館で是川遺跡や風張遺跡の展示と出土遺物を見学して、この中居遺跡遺構を見てから東に丘陵地を登って
 一番上にある是川遺跡の記念碑から是川遺跡全景と風張遺跡の遠望。
 そして 再度この縄文館のところまで、下って、新井田川から橋を渡って向かいの丘を登って風張遺跡へ。

 そこから さらに丘の頂上部に登って、是川団地/本八戸のバスで八戸市街地へ出て八戸博物館へ。
 昼過ぎまでに新幹線八戸へ出れば、一戸の御所野遺跡へ行って 盛岡まで行ける。
 ざっと こんな schedule を話すと十分行けると。

色々資料をもらって、縄文学習館と隣の歴史資料館・考古館の展示見学に入る。
縄文学習館は映像、ジオラマ等により縄文時代の暮らしや文化そして是川遺跡の概要ならびに出土遺物を紹介するとともに、
考古学教室、体験学習の講座も開催するなどを通して、縄文文化や是川遺跡の啓発ならびに地域活動のセンターとなっている。
また、是川考古館・歴史民俗資料館には、是川遺跡から出土した土器、石器、木製品、漆器などの貴重な遺物を展示しており、
その多くは国の重要文化財に指定されている。

是川遺跡の概要や発掘遺物などについては別項「是川遺跡・風張遺跡概要」に示したが、
この縄文学習館ならびに是川考古館・歴史民族資料館に展示されていたパネルや遺物の中から、
是川遺跡・風張遺跡Walkに関係し、うまく写真のとれたものをご紹介。
他項との重複お許しください。

是川遺跡・風張遺跡の発掘概要は別項「是川遺跡・風張遺跡の概要」にとりまとめましたので、そちらもご覧ください。

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   《 縄文学習館と隣の歴史資料館・考古館の展示見学からとりまとめ 》
 ●  是川遺跡を代表する多数の縄文漆の植物質遺物を出土した泥炭
 

是川中居遺跡から大量の漆塗りの木工品・土器を出土した 【特殊泥炭層】

1926(大正15)年に特殊泥炭層が発見され、そこから多量の土器をはじめ、普通の遺跡からはほとんど発見されない植物質の遺物
(へら形木製品や漆塗りに腕輪など)がまとまって見つかった。
木製品などの植物性遺物は、通常は地中で腐ってしまうが、ここでは水につかった状態の泥土が「天然の冷蔵庫」の役割を果たし
たことで、腐らずに残っていた。その後も赤漆塗りの弓、木刀状の木製品、藍胎漆器などが相次いで出土した。

大量の漆塗り植物遺物を出土した場所がどこなのか 興味深々でしたが、パネルの地図から入口からこの建物が建っている場所へと続く小道の南側全体に泥炭層が広がり、この敷地の一番南側の端で集中的に出土していることが展示パネルより知れた。
地形的にはちょうどこの敷地のところが新井田川左岸の一番低い場所であり、川がこの遺跡に隣接する北側の十字路のところで大きく東へカーブして流れ下っている。この地点が古くから湿地として維持され、葦や樹木の葉や実が堆積して泥炭層を形成したのだろう。また、この泥炭層にはクルミ、トチ、ナラの実が数多く含まれているという。

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是川遺跡の中心 中居遺跡の発掘調査のまとめ
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   縄文学習館展示・平成14年ならびに平成16年度発掘調査資料・縄文ファイル等より 概要とりまとめ

2003
遺跡北側のP地区からは縄文中期中葉の住居跡が見つかり、地域のまとまりが見えてきました。
「南の沢」の東に設定したO・Q地区では沢に向かって傾斜下地形を盛土整形、配石遺構などを作っていた。
遺跡南西の弥生前期のお墓のほかにも、
中央のK地区から同時期の楕円形の土坑墓や土器棺墓が見つかり、土坑墓のひとつから玉61点と石鏃3点が出土
 
1. 遺跡の南側には深さ2m以上の2本の沢が東西方向に伸び、現在はなだらかな傾斜地であるが、
 当時は起伏のある地形で、数多くの植物質遺物が出土する特殊泥炭層はこの沢を埋めるように広がっていた。
 その窪地に縄文晩期はじめの生活道具や食料残滓が捨てられていた。
  食料としてのトチ・クルミの殻は一番多いところで約80cmの厚さに積もっていた。
  また、遺跡の北側 長沢地区にも河川の跡が見つかり、遺跡北側にも大量の遺物が捨てられている。
2.遺跡中央の台地部分には縄文時代後期から晩期の住居跡赤く塗られた人骨が埋葬されていたお墓。
3.遺跡西側には弥生時代前期の竪穴住居や砂沢式の甕を使った土器棺墓が作られ、遠賀川土器がまとまって出土。
  このことから、中居遺跡は弥生時代に入っても中心的な集落だったかも知れない。
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縄文文化を代表する数々の縄文漆遺物を出土した是川遺跡の集落については 今まで ほとんど報告を知らず、
どんな集落なのかよく分かりませんでした。
今回 中居遺跡の資料から 墓域や居住域が明確になってきたことなどを知り、
大量の漆遺物や土器を出土した是川中居遺跡の集落としての性格が明らかになってきました。
また、大量の漆遺物を出土した特殊泥炭層の地形的性格もほぼ解明されつつあり、集落全体の形もおぼろげながらわかってきた。
中居遺跡の集落の位置をまとめるとこんな風になるのでしょうか???。
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南北に流れ下る新井田川が右へカーブする手前の左岸に低湿地が広がり、その上の台地に作られた中居遺跡。
この台地から川まで、現在建物の建つ中央部の少し西奥から川までの緩やかな傾斜地に泥炭層が広がり、
かつてこの場所は川が右へカーブする地点で絶えず水と接する地点である。
新井田川が作った湿地であることがうかがえる。

現在は新井田川の左岸の緩やかな傾斜地であるが、中居遺跡の集落があった縄文時代にはもっと起伏があり、
この台地の南端には小さな沢が湿地へと続く。また、北側にも川が流れ遺跡の北側を区切る。

そして 現在縄文学習館や歴史資料館が建つ中央部がこの遺跡の居住区で、墓域と竪穴住居が集落を構成して、

縄文後期・晩期から弥生 そして古代から江戸期へとこの中央部の中でその居住区を変えながら集落が続いてゆく。
漆遺物や土器・土偶と数多くの遺物を出土した縄文晩期の集落は現在の縄文学習館が建つ場所から北に居住区があり、
その前や南側に墓域があり、弧状の墓域は弥生時代にはさらに南
へ伸び、ちょうど湿地を弧状に取り囲むように集落がなっている。南端の沢と北の川が集落のゴミ捨て場になっていて、
漆遺物や土器・土偶など大量の遺物が出土したのが、南の沢である。
また最近北の川のところからも多数の遺物が見つかっている。

この中居遺跡が対岸の丘の上にある中期の環状大集落風張遺跡との関係も大いに興味がわく。

二つの集落のつながりはどうなのだろうか・・・・
縄文中期の大集落がほぼ終わる頃に直ぐ対岸の新井田川の川岸の湿地の上の台地でこの中居遺跡が大きくなり、
縄文文化の華といわれる縄文漆遺物など数々の遺物を残す。
また、縄文人の住む高台の森から 弥生人は水辺近くへと住処を変えてゆく。
丘陵地の高台に居る風張遺跡の人たちが 水辺へ移っていったのだろうか・・・・
風張遺跡では 竪穴住居の中から、一粒ではあるが、炭化米が見つかっている。
縄文後期 風張の縄文人は もう米の情報を持っていたのか?

また、縄文の典型的な環状集落から縄文晩期を経て弥生の集落への変遷過程も気になる。 
この縄文晩期の是川中居遺跡では まだ、環状集落が維持されているのだろうか・・・・
弥生の村への変遷が見られるかもしれない。
 

今後も 新しい発掘・発見に期待したい。

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縄文の漆  縄文晩期 北東北に花咲いた亀ヶ岡文化を代表する是川・亀ヶ岡遺跡の漆遺物
 


  縄文晩期 北東北に花咲いた亀ヶ岡文化を代表する是川・亀ヶ岡遺跡の漆遺物

     ( 右写真の上段は是川遺跡出土遺物のレプリカ)  「縄文の漆」より

是川中居遺跡から出土した縄文を代表する数々の漆遺物 
この漆はこの是川の里に自生していたと思うのですが、どんな風だったのだろうか・・・。 
この八戸へ流れ下る馬渕川流域の上流岩手県側に入った御所野縄文遺跡のある一戸の隣町 二戸浄法寺は
現在も「浄法寺漆」の産地。
漆の全国生産の60%をしめ、その質が良いことから国宝や重要文化財の修復に用いられ、
古くから林に入って漆を採取したようだ。
縄文館で見せていただいた「縄文の漆」(御所野遺跡作成)の資料にも
詳細にもこの地方の漆や是川遺跡出土の漆遺物の復元写真が詳細に示されていました。
 

「漆」は日本が発祥地???    「漆」は縄文の早期から技術がはぐくまれてきた

     右端の写真に一度見たかった漆掻きの横線が何条も幹にはいっているのが、見えます
      一戸 御所野遺跡で復元されていた漆の林と 漆掻き   2008.10.30.
 
亀ヶ岡文化と呼ばれる縄文晩期の華  是川遺跡の出土遺物

是川遺跡から出土した漆遺物
  
是川遺跡からは漆で彩色されたものを含め 亀ヶ岡式時と呼ばれる多彩な土器が出土 
 
是川遺跡から出土した土偶
是川遺跡・風張遺跡の発掘概要は別項「是川遺跡・風張遺跡の概要」にとりまとめましたのでそちらもご覧ください。
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